井上貫道老師が坐禅会の時に話されたことばから


●坐禅するということは、生地(きじ)のままでいることです。自分の生地に触れる時間帯が坐禅です。

 

●こうやってぱっと見ると、みなさん座ってますね。

全部一度に見えるんです。遠いとか近いとかは無いんです。

遠いとか近いとかは『考え方』でしかありません。人間が頭の中で遠い、近いと判断しているだけです。

 

●我々は普段、『考え方』を起こし、さらにその上で『どうあるべきか』なんて考えがちですね。
坐禅は、それを離れた生地の自分のままになることです。

 

●悩みや不安といったものは考え方の上に起こってくるものです。


 

●我々は生まれてから今まで、「事実」にいろんなものを付け加えて生きてきてますから、いざそのまま事実を見ようとしても難しいんですよね。

事実とほぼ同時に考え方が起きます。

厄介です。坐禅によってそれが取れて、素っ裸の心の生地になるんです。



●静かに座っているだけでは坐禅ではありません。

この自分の生地に触れることが大切なんです。

仏教のパンフレットには足の組み方や作法は書いてあっても、一番大事なここが抜けているんです。

世間の書物にも書いてないです。たぶん、どうにも書きようがないからでしょうね。

 

●修行して解脱するんじゃないです。
すでに解脱してるんです。
そのことに気づき、ああ、なるほど、確かに解脱してるな、となるのが坐禅です。

こういう実証方法を伝えてきたのが仏教のすばらしいところですね。

 
 

●解脱している証拠に、先ほどの事を今やっている人はいません。今は今の事しかやっていません。これこそが証拠です。




●左を見て右を見れば、もう目には右の光景が映っています。左の光景は残っていません。これが、目が解脱している証拠です。耳も鼻も同じです。


 

●失恋したショックで何も見えない、という人がいたら連れてきてごらんなさい。どんなにへこんでいても、茶碗を見せればちゃんと茶碗に見えますよ。それぐらい誰もみな解脱しているんです。




●腹を立てる人ってのは、右を見ている時にも左のことが頭から離れないんですね。そうなると、右のこともまともに見えなくなります。


 

●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。
でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。
だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。

もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。

考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。実際には、つかむものなんて何にもないんです。


 

●ワン、と聞こえると、あっ犬だ、と思いますよね。

思ったその瞬間には、もうワン自体はありません。

つかんだつもりの時にはもう無いんです。

考えるより先に事実があるんです。後から考え方に変えてるだけです。


 

●良い、悪いといった考え方を外れなきゃだめです。

人の話を聞くときもそうです。

そうしないと本当にその人の話が聞けません。

良い、悪いを外れて聞くから大切に聞けるんです。

しかもそのほうが楽ですよ。


 

●考え方のほうに行くから迷うんです。

事実に目を向けることです。
今のありようのみです。
特別なことではありません。

我々はずーっと事実の中で生きているんです。



●科学の世界でも、自分の考え方を立てているとずれますよね。
事実のみを見ないと間違います。

無限の変化を無限なまま見ていくんです。

 
 

●医者はどうですか?
患者を診る前に自分の考えで診断しちゃいますか?

そうじゃないですよね、まず患者の状況を見ますよね。


 

●腹が立ったときに、その怒りがまた怒りを呼んでだんだん収まらなくなるのは、事実の側にいないからです。




●自分自身とは24時間片時も離れずにいるのに、自分を見るってことを、みなさんしないんですよね。

何か事実が起きたとき、自分に何が起きているかを知らないんです。

事実に対して最初の瞬間から腹を立てる人はいないですよ。





●反省、後悔、自己嫌悪といったものも、考え方の中にいる限り、そこから立ち直れません。

後悔する自分ではなく、生地の自分のほうにいなさい。



 

●私の師匠(井上義衍老師)は叱り方がうまかったですね。

子供の頃、さんざん叩かれましたけど、全然うらみに思わないんです。

きっと彼が心の生地のままに動いていたからでしょうね。



 

●生命が宿ったら、全ては最初からその中にあります。

樹を植えると、勝手に芽が出て根が伸びます。 
 
こちらは水や肥料をやってるつもりですが、実際は自分で育ってるんです。

水をやっても芽が出ない樹もあるし、ほっといても勝手に育つ樹もあります。



 

●物事を理解する力も、他からは来ないんです。

全て自分でその力を付けていきます。


 

●坐禅でも、これだ、というものが最初に正しく根付けば、あとはほっといても大丈夫です。


 

●自分の抱えている問題を修正しよう、なんてするとだめですね。

そんなもの、きりがありません。
人生終わっちゃいますよ。


 

●もう50歳だ、先が短いっておっしゃいますが、毎日が新しい日ですからね、歳なんて取らないんですよ、坐禅してると。


 

●疑問があればとことん質問して消化しておいてくださいよ。

疑問を抱えたままだと、坐禅中にその考えが出てきちゃいますからね。


 

●眠気が起こったら、ちょっとそれに気づいてあげればいいです。
気づけば眠気は去ります。
釈尊も『覚すれば即ち滅す』と言っています。

とはいえ、眠気が起こらないような体調や環境を整えることが第一ですね。




●真剣に道を求めて修行している人は、警策(木の棒)で叩いても大丈夫です。中途半端にやっている人は叩いてはだめです。おびえちゃいます。


 

●道元禅師は最初の頃、坐禅の効用を6つほど書いておられました。しかし最後のほうになると、効能書きを削除しています。たぶん坐禅がそれだけのものだと思われることを避けたかったんじゃないでしょうかね。



●坐禅は自殺しなくてすむ道なんです。