只管打坐の極意 by 井上貫道老師   の続きです


inouekandoroshizazen2ske2以下すべて坐禅・只管打坐の方法について話されています

Q.
坐禅中、畳の目が見えているのですが、外で鳥が鳴くといきなり畳の目がなくなって鳥の声に感覚が動きます。

鳥の声が消えればまた畳の目が戻ってきます。

そういうものでしょうか? 


それとも目と耳が同時に働かなければ間違いでしょうか?



(井上貫道老師)A.
そういうことはあります。

もっと言えば、考え事をすればもう何も見えず何も聞こえなくなりますよね。

そういうものです。


目を開いているからといって必ずしも見ているわけではなく、
耳があるからといって必ずしも聞いているわけではないんですよね。

ただ、五官[眼耳鼻舌身]の働きはそんなに単純じゃなく、もっと複雑で、変幻自在に変わります。

目と耳だけじゃなく、これ(身体)全てです。そういった五官の自在な機能に学んでください。
 

たとえば耳の機能はすごいですよ。

3人でしゃべればどうなりますか。

ちゃんと3人でしゃべっている様子になりますよね。




●『自分が物を見る』とやると、物を見てる自分が立っちゃいますね。

自分を立たせるのではなく、自分と物と、実際は一つなんです。





●何かをつかもうとしないことです。

実際はなーんにもつかむものなんてないのに。何かつかむものがあるんでしょうかね?




●普段の社会生活では自分を立てなければやっていけません。

だからこそ、お寺のような場所で、一定の時間、自分を立てずに今の様子だけに参じる意味があるんです。





●飛行機のゴーッという音が聞こえたとき、はっと飛行機の音だと気づくのは、人間がそういう作用を働かせているからです。

そうじゃなく、単にゴーッのままにしておけばいいです。






●今の事実なんて、いつだって何もしなくてもそのままになっています。

何も考えずそのままですから、一見愚か者のように見えます。
ryokando
良寛さんなんかは『大愚』と呼ばれてますね。

本当に愚かなわけじゃないです。













●車を運転しているときには坐禅してはいけません。
車に乗るときはただ車に乗るだけです。

『車に乗るときは、ただ車に乗る』、
それこそが坐禅と同じことじゃないですか。



●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。

でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。

だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。

もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。
考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。


実際には、つかむものなんて何にもないんです。





●想いがやまるほどに、このもの(自分)が無限の活動をしていることが分かってきます。

決して「心静か」なんていう状態ではないですよ。




●機能としての「想い」は問題ありません。

それに自分の考えをかぶせるから問題になるんです。

手を付けてしまっているんです。





●坐禅は知識の勉強じゃないですよ。体でやるんです。





●物を見ると、たいがいの人は「むこうの物」と「こっちで見てる自分」を立てます。

でもそれは人間の見解が作り上げただけのものです。


実際にはむこうもこっちもないですよ。

 



●(坐禅中の老師の境地はどうですか、という質問に対して)

こうやってると、今、まわりでコオロギが鳴いてますね。

その中にポンと身を置いている感じ。


聞いている気配はありませんし、聞こえてくるという気配もありません。


ただ音だけ。
不思議に自分がないんですねえ。

ごくごく平凡です。






●坐禅するということは、生地(きじ)のままでいることです。

自分の生地に触れる時間帯が坐禅です。




● 六根の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。




●(外を車が走り去る音に)「ブーーーー」だけじゃないですか。

これだけです。

これだけじゃないですか。



 
●(手にした扇子の角度をいろいろ変えながら)こうやればこう見えるでしょ。

こう変えればこう変わるでしょ。

これが不思量底を思量するということです。


坐禅はいくら姿勢を整えたって、この不思量底を思量するということがなければ、なんにもなりません。





●(机を叩いて)「コン」とやると、音がして気がつきますね。

音がするから気がつくんです。

気がつくのが必ず後になります。

気がつくより先にこういうこと(「コン」)があるんです。


これを丁寧によく見ていけば、それは人間の好き嫌いを超えているものだということがわかります。

そういうことに学ぶのが坐禅です。





●真実は考え方じゃないんです。真実には説明がいらないんです。


 
 

●考え方で作ったものは脆いんです。

人間はあれやこれやと考えて、
重箱の隅を突っつくようにして考え尽くし、
これで完璧だ~
なんて思ったりすることがあるけど、
そこにちょっと違うものが入ってくると、とたんに崩れちゃいますよね。

 
 

●(机を叩いて「コン」)この音は崩れないですね。






● 目・耳は良し・悪し、好き・嫌いを判断しない。

聞こえたもの、見えたものはその場でその場で完結しており、一切残らない。

それが事実であり、その事実に参じるのが修行。






●多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。

それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。





Q.坐禅をしている最中、自分を観察しているもう一人の自分がいつまでも残って消えないんです。

A.それは間違ってますね。
もともと自分なんてないんです。

自分を観察している自分がいると感じるとすれば、
それは一瞬でも過去の状態を振り返ろうとしているということです。

過去を振り返らず、本当に今の事実だけになればもう一人の自分はなくなります。






● 自分を中心にして物事を見てしまっているから自分が消えないんです。
もともと自分はないんです。

実は、考え方や見解も自分が作っているのではないんです。

自分を中心に据えて物事を見るのではなく、物事の方からやってくるんです。


それが五官に任せ切るということです。





●修行が進むと何事にも用がなくなってくるので、一見バカになったように見えます。

それが怖くて多くの人は頭を使っちゃうんですね。

大丈夫です、本当のバカにはなりませんから。





●私(老師)が坐禅をする時ですか? 本当になーにもしません。ハハハ。






●本当に事実に触れれば、底が抜けてすっきりしますよ。






考え[思い・感情も]が出てきてもそれを取り扱わないのが坐禅です
何もしないのが坐禅です



自分のほうから探ったりたずねたりすることをやめれば、
「事実」(真実)がそこにあるんです


どうしたらそうなるかじゃない
すでに出来ている
それを見極めるのが修行です

今の自分が本当にどうなっているか、それを見極める、見届けるのです








Q.
眼耳鼻舌身意っていうと、森羅万象、人間の生きている全てですよね。

それが「無」(無眼耳鼻舌身意)ってことになると、いったいどういうふうに解釈していいのかと。




A.
今、申し上げたように、一応説明しますけど、説明じゃ届かないでしょ、
「超越する」[=無]って。


物を見る時、眼なんかがあると思ってないでしょ。



眼なんかどこにも出てこないでしょ。

それが眼の働きでしょう。


ごらんのように、有るとか無いとかを超越してます。



カエルの声がするとき、一応耳があるから聞こえるんだと説明はするんだけど、
聞いてる時に耳があったら邪魔でしょう。


耳なんか感じてないでしょう。
音がしてるだけでしょ。


そういうのを無眼耳鼻舌身意というんです。



Q.
そのあとの色声香味触法、それは眼耳鼻舌身意を実際に表現するものだと聞ききましたが・・・

A.
たとえばあそこに五色の旗がありますが、見てごらんなさい。

Q.
ハイ。

A.
いや、だから、見てごらんなさい。

Q.
ハイ。

A.
いやいや(笑)、だから、見てごらんなさい。

Q.
ハァ。

A.
見てごらんなさいって。

Q.
(ようやく目を向ける)

A.
見えました?

Q.
見えました。(目を戻す)

A.
今はどうですか?

Q.
もう見えない。

A.
そうでしょ。

あんなにちゃんとあると思ってるのに、眼というものは、向かった時しか絶対にそのものを見てません。

Q.
ハァ。

A.
でも頭の中は、見えなくても、見てなくても、あそこにあると思ってるでしょ。


Q.
それは記憶が。

A.
眼はそんなことしてないでしょ。眼にはそんなこと残ってないでしょ。

だから無色声香味触法ってなるんです。

音だって、今鳴いてるってことが確かに聞こえるのに、鳴き止んだらどこにも。

だけど記憶があるから、さっき鳴いたってことを思い起こす力があるけど、
じゃあ思い起こしたときに耳に音がしてるのかっていえば?


Q.
ないですね。

A.
ないでしょ。そういうふうに活動してる。


Q.
しかしそういうことは、私のような凡人には、すんなりとは…。

A.
凡人じゃなくて、自分のことだから。

自分のことでしょ、みなさん。

自分のことだから、こうやって見た時に見えて、こうやって見たらあそこのものは見えない。


見えないけど、確かにあそこにあると「思って」います。


じゃあ眼はどうなってるかっていったら、確かに見たんだけど、
絶対にそんなものなしで今見えてるものだけで生活してる。


それぐらい「無眼」「無色」、眼も物もみんな超えてる。


だからといって、なくなって寂しいかというと、何も寂しくないでしょ。

なくなったとも思っていないでしょ。

あれが見えなくなったとも思わずに生活してるんでしょ。

不思議でしょ。


考えてることは違いますね。


こうやって勉強するんです。



Q.
執着心があるから、ってことですか。

A.
自分の眼に、執着してるものがあるかどうか見てください。

修行していないにも関わらず、ああやって見た時に見えて、
こうやって見た時に執着もしないで全部あれから離れ切って、
いまこうやってこういうものが見えるだけでしょ。


こんなにうまく生活ができてるのに、
自分をよく知らないから、どうしたら執着から離れることができるんだろうって、
ここ(頭)だけで考えてる。


そんなの修行になりませんよ。


ただ考え方をもてあそんでるだけ。

四六時中。

それは修行じゃない。



修行は、実際に自分がどうなっているか、
この体でどうなっているかを見極めていく。

本当にどこにも残ってない、
くっついてないな、
こんなに自由に動けるようになってるな、
一切問題が起きないようになってるな、

って生活したらいい。



そっちをやらないからだめなの。

それをやらないと修行にはならない。


だから修行の時には考え方ではやらない。


坐禅してても、考え方でどうこうすることは用いません。



坐禅してるといろんなものが出てくるでしょ。

出てきたものを取り上げて、こうしたらいいかな、ああしたらいいかなって、そういうことを一切やりません。


それは修行にならないから。



Q.
瞑想してると次から次へと出てくるんです。


A.
だからみなさんのは迷走なんです。(笑) それはもう坐禅ではない。



Q.
頭の中で無意識にそういうことを考えてるんですかね?

A.
いやいや無意識じゃないですよ。

知らないから、出てきたものを取り上げる。


取り上げない、ってことはどういうことか分からないから、

「出てきたものを取り上げないようにして坐りなさい」と教えても、
出てくるとすぐ相手にしてる。

それぐらい愚かなんですよ、
自分を知らないっていうことは。



Q.
「貪」「瞋」「痴」の「痴」ですね。とんじんち

A.
そうそう。

だって、「本当に自分を使わない」って、
そんな難しい言葉じゃないから一応分かるじゃないですか。


思いを加えないってこと、分かるじゃないですか。


お茶を飲んでも思いを加えなかったらどうなるかっていったら、
うまいとかまずいとかっていうようなこと出てこないじゃないですか。

ただその味がするばかりで。


それが「思いを加えてない」ってことでしょ。


考えが出てきたにしても、それを取り扱わないってことは、
このお茶を飲んだら味がしてるだけっていうことでしょ。

いいとか悪いとか、
邪魔になるとか、
整理が付かないとか、
まだこんなことを思ってとか、
そんなことはみんな手を付けてるってことでしょ。

出てきたものに対して。



そのぐらいのことは分かるでしょ。


そしたら坐る時もそうことをしないで坐ったらいい。

それで初めて「坐禅」っていわれる。




Q.
そうすると心の持ち方っていうのは、坐禅をしながら、すべてを自然のままに…。

A.
いいですよ。

自然のままっていうよりも、それしかないんです。

その動きしかない。

その時その動き以外にない。


そういうことを本当にやるのが坐禅なんです。


だけどもその動きに対して人はすぐ考え方を付けていく。

それだから事実がどうなってるか分からない。


ただ足を組んでいればいいとか、そういうものじゃない。



     (略)

難しい話じゃないでしょ。本当に普通、誰しもがやっていることでしょ。



Q.
それがまた難しいんです。


A.
難しくするのは考え方です。

考え方が入ると難しくなるんです。


どうやって聞いたらいいかって考えたら難しいでしょ、


(机を叩いて)

「コン」

この音を聞くのに。


「コン」


こうやって何もしないでいたら、ちゃんと聞こえるようにできてる。

「コン」

こうやって何もしないで聞いていることが修行です。


これに自分の考え方を加えずに、

「コン」

こうやって音がしたら、そのとおり聞いているということが修行なんです。




こんなこと、誰も教えないんです。

教えてこなかったんですよ。



「何かすること」だと教えてきたんです。



道元という人が、初めてこうやって修行ができるよと教えたんです。




そりゃそうでしょ。


「コン」


何もしないのが一番よく聞こえる。

ちょっとでも何か付けたり削ったりするようなことがあれば、
このままの様子がそのまま伝わらないじゃないですか。

真実が。



真実を本当に伝えるんだったら

「コン」


このままで何もしない。そのまま、ズバッと。





Q.
そういうところが一番肝心で、一番難しい…。


A.
だから一日中いろんなものを、眼耳鼻舌身意っていって六つの感覚器官があるから、
それが触れた時にみなそういうことをやってるわけだから、
それを今までは、すぐ触れると、人間の考え方でこうやって探ってたから。


それをやめるんです。




自分のほうから探ったりたずねたりすることをやめれば、

その事実がそこにあるんだから。

そのまま事実がそのとおりのことを、
直に自分に、
時間の隔たりもなしに、
場所の隔たりもなく、
そこに一分の隙もないし、
疑いもないし、
ゴミも入らないで、
きちっとあるってことが、
理屈の上からしたってちゃんとそうなってるじゃん。


それをただやるだけなの。


それぐらい坐禅ってものが、世間に伝わってるものと違ってるの。


それをまずここでちゃんと話をして、やってもらいたい。


そうでないと、本当に、考え方しかしてないんだよね、坐ってて。


一般にはそれですむかもしれない。

やったってことで。



だけど自分自身が自分自身にたずねたときに、ただ頭の中でぐるぐる堂々巡りしてるだけですよ。

考え方で。


そんなもの、どうしようもないじゃないですか。




Q.
それが煩悩ですかね。

A.
煩悩。わずらわしく悩ませるんでしょ。

ありもしないものを自分であるって認識して、
それでいっぱいいろんなものを作って。

ないところに、いろんな思いを起こして、
起こした思いを本当にあると思って、
それを問題にしてる。

そっちじゃないですよ、修行は。




      (略)

難しいっていえばそういうところかね。

考え方がこびりついているからね。


でも、そんなにこびりついている人でさえも、こうやって聞くときに、

「コン」

ただ、こうやって聞こえるだけだっていうことを言っとこう。


だから難しくないってことでしょ。

どうしたらそうしたものが取れるかじゃなくて、
実際に今、そんなものなしに聞こえるようになってますから。


だからできるとかできないとかっていうようなことじゃなく、
できてます。


「コン」


みな、やれてます。
誰も。


だからいいんです。



あとは気づいたらいいんです。


そのまま。



無いものに気づけっていったら無理です。

やれてないものを、っていったらやらなきゃできませんけど、
すでにやれてますから。

探さなくたっていい。


どうかしてできるわけじゃないでしょ、これから。



(手を叩いて)
「パン」

これから何かして今のように音が聞こえるようになるわけじゃない。

もう聞こえちゃったんだから。

このとおりね。


自分で作り変えたことなんかひとつもしないんだから。



「パン」

いきなり聞こえて終わりですよ。



それだのにここ(頭)は、
何かしないとそのとおりにならないと思ってる。




Q.
と言われても、生活に追われてると、なかなかそこまでは…。

A.
生活に追われてるからじゃなくて、自分の今の事実に目を向けるということがない、
ということ。


ここから上(頭)でしか生活してないんですよ。



仏道ってのはそういう違いがあるの。







● 修行に時間がかかる人は、結局、何も実践していなんだね。
(月1回の座禅会に来て、坐禅して法話聞いて、1か月後にまた坐禅会や接心に来て、坐禅して法話聞いて、それをまじめに繰り返すだけなど)




Q.
坐禅はどうやればいいのですか?

A.
この身体で、今、生きているこの様子がありますから、それに無条件でいてみるっていうことです。

頭のほうで何か探るのでなくて。

事実、今、こうあるものの方にこう、そのまま、照らされると言っていいのかな。このままいてみる。



考えを使ってないからといってボヤーッとしているってことはありません。


よく「坐禅で何も考えないようにしてお坐りください」って言うと、
「なんかボーッとして何してるのか分かんなくなる」って質問される人がたくさんいるけど、
そんなことはありません。

明確です。

クリアです。


そして、そういうものによって、本当に、
最終的には、
自分も物も、そういう隔てるものが一切なくて、
いきなり「向こう」と「こっち」とか、
「私」とか「あなた」とか
っていうようなことがなしの動きがそこに展開してる、

そういうものに必ず人は触れます。
 

そういう時に、少なからず、今まで祖師がたがいっておられるような内容がですね、

ちらっと「なるほど、そうだな」って思えるぐらいには間違いなくなると思いますね。


そっから、今度は安心して修行が出来るんじゃないですかね。


「どうしたらいいか」っていうようなことも問わなくなる。


そこまで連れて行きたいですね。あとはもう、やってもらうしかないな。
(「なるほど、そうだな」という所まで来た人の体験談は以下にあります)
体験談をすべて読む



上のボタンをクリックすると井上貫道老師参禅者の体験談がすべて最初から読めます




(以上は、坐禅を実際にしようとする人、実際に坐禅を組んでいる人へのアドバイスですので、ただ読むだけだと概念化されて却ってあとでそのことが障害になる可能性があります。ご注意下さい)



前記事

次は