坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

▶自分の見解を起こさずに、
本当に相手がしゃべってる時そのまま聞いているっていう事が
穏やかな生活ができている証拠じゃないですか?
ー井上貫道老師 



2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。② 
道元禅師・正法眼蔵春秋の提唱から
 
①の続き

この前も紹介したんだけども、
あるお母さんがお寺に参禅に来てるから、 
「皆さん、ここお寺に参禅に来て何か目的あるんでしょう?」
って聞いたら、
「心が穏やかでいれたらいい」
ってその人は言われました。



「穏やかになれたらいいって、普段穏やかじゃないんですか?」 
って聞いたら、
「子供と話をするとすぐ喧嘩になるんです」 
って。


「すぐ喧嘩になるっていうけど、いつもそうなの?」
ったら、
「いや、そうでない時ある」 
って言ってました。


「どういう時?」

「それ、自分で相手の話をただ聞いてる時だ」 
って言ってた。

それ、穏やかだそうです。
喧嘩にならないそうです。


自分の生活の中知ってますよ、だから。
だけどもそういう事が修行だと思ってないから。
お寺でも行ったら、もっと楽になるんじゃないかと思ってる。

そうじゃない。


本当はそうやって自分の見解を起こさずに、本当に相手が 
しゃべってる時そのまま聞いているっていう事が
穏やかな生活ができている証拠じゃない?


それが、禅の教えだとか、仏教の教えだとか思ってないんですよ。
不思議ですね~。

どっかに別な教えがあると思ってる。



そういう事が問われてるだけなんですよ。
 

知らないと、その話をしてる時に、まだ他の何かをして 
幸せになれると思ってるんですよ。
 

やりかえて、何か他の事やりかえて、人は幸せになれると思ってる。 


そうじゃない、ただ本当に聞いているだけで居れるようになったら
人は幸せになれるんです。



だって自分の主義主張を立てて相手の話を聞くからすぐ喧嘩になる。



修行は他の時間にないじゃないですか。

他の時間帯で修行する事はない。

その時にどうあるかだけじゃないですか?


そのやってる事、今会話してる事の外じゃなくて、 
会話してる事を材料としてその時に自分がどうあるかだけが、
それ以外のところで修行する場所ないじゃないですか。
 
取り替えて。
 

今会話してる事、会話するといつも喧嘩になるから会話する事は 
止めといて他の事でって会話始まってやるような事したら
おかしいじゃないですか。
 

お茶を出されてお茶を飲む事止めて、じゃあ何するんですか?

そうじゃない。


その事でいつも勝負でしょう。



その事の中に修行があるんでしょう。
こういう事が伝わってない事ですねー。 


町の方に出て行っていろんな人達と話してみるとよくわかる。
今やってる事を外してどこか違ったものを持ってきて、そこにあてはめて。
そういう事が修行のように思ってますねえ。



道を明らめた人、真実を見極められた人達のとりあげられているものと
ただ単なる見解、そういうもので取り扱っているものとは違う。

実物と偽者は違うと言っていいのかしら。



一度も本当の熱さに触れた事がないのに、 
文章に熱いとは火傷をするような事だとか、温度が何度かとか
書いてある事を知って、いかにも熱いって事を知っているように
思ってる事は愚夫の法でしょうかねえ。




今の社会ではだんだんそういう人増えてきた。


実物抜きでインターネットなんかを通してでもですね、 
あらゆる知識がすぐに検索できて、検索したものをみると
あたかもそれ、自分で知ったかのように自分の知識にしてる。


だけどそれは他人がやった事をわずかに見て 
そう思い込んだ位の事なんでしょう。

そういう事だと思いますよ。 


直ちに、今、ここで、直接に。
家に帰ってからとかこれからとか言わずに、 
今、ここで、すぐに。


この音声ひとつだってそうでしょう。

いきなり聞こえてそれで終わりです。

回避する所なんかどこにもない、
という事が春秋の巻の最後の詰めになってますね。


そういう事のために、『正法眼蔵』読んで 
どういうふうに、何を、どこに向かって、どのように
生活をしたらいいのかっていうことが伝わって。


伝わるっていうことは実践して頂けるようになるということですかね。

どうしたらいいかって事が伝わるって事は実践するって事になりますね。

実践しなければ、どうしたらいいかって事が伝わったって事ではないですね。

それでいいでしょう。

それ、すごい大事な事なんですねえ。


「あーそういうふうに書いてある」、「そういう事か」っていうのは 
伝わったんじゃあないですね。

それ理解に終わっただけですね。
あるって事は実践するんですね。
必ず実践します。


右行ったらちゃんとした所に着くよと書いてあったら右に行くんです。
そうするとなるほどここかあって必ず着く場所があるからそれでいいんでしょう。
そうすると書いてあったものが初めて自分で信じられる。


そこまでやって頂くと、こんなもの(老師、『正法眼蔵』を持ち)を 
持ち歩かなくても済む人になるんじゃないですか。


是非そうやって頂きたい。と思います。 



毎月一回木曜日、静岡駅から南へ徒歩10分の崇福寺 鯖大師で、
井上貫道老師の座禅会があります。
崇福寺臨済宗
 
夜6時半から9時まで、出入り自由、会費一回1200円、
25年続いており、正法眼蔵をテキストにして
井上貫道老師の提唱、お話があります。
会場などの詳細は、
井上貫道老師全国坐禅会日程にあります。



引用元
http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265828.html
文中の 愚ふの法 を 愚夫の法 に書き換えました。


(このブログは
井上貫道老師まとめブログです
すなわちネット上にある井上貫道老師の様々な語録と坐禅会情報を一つにまとめて、
学人の参学の便宜とするものです) 

通常のブログでは、その記事の続きを読みたいと思いましても、インターネットの達人でない限り、
次の記事が探しにくいものですので

 

▶私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら
「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。


▶ 「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。
「何かわからない事ありませんか?」と聞く。

誰も何も言わない。
 
「では、座りましょう。」と言って座る。
 
問うべき事を問わないんじゃないですか?
 
 
一応パンフレットみたいなもの渡して、冊子のようなもので図解ができてるものを差し上げる。
口頭でも多少話をする。
一応の形はできる。
そして坐禅をする。

 
こういう座り方(坐禅の仕方)で座禅になってるのだろうか? 
 
修行になってるのだろうか?というような事ですね。

―井上貫道老師
 



2013年4月の井上貫道老師の静岡禅会でのお話です。①

道元禅師 正法眼蔵春秋の巻
 
私達は毎日朝から晩まで真実の中に生きていながら
「おそらく一度も真実に直接触れた事はない」って言っていいでしょう。
 
考え方、を通して見てる、
いつでもって言っていいほど。
 
だから心底納得しない事があるんでしょう。 
 
ちょっと何か揺り動かすと自分の中で疑いが起きる。
 
不安な気持ちになる。
 
揺らぐじゃない。


それで。人につつかれればなおさら揺らぎますねえ。


どこに行こうがその事がその事としてきちっと伝わるようにできてる。
あたかも暗記してるように。
 
初めて出会うものだけども、初めて出会ってうろたえるような事はない。
 
どこへ行っても。
どんな事に出会っても。
うろたえるような事はない。

 
うろたえるのは現実を見ないで自分の頭の中でその現実を捉えて 
どうこうするようになると問題が起きてますね。


「痛い」っていう時に、「どうかしてくれ」っていうようなものはないんですね。
不思議に。
それだけで済むんでしょう。
 
「なんで?」というのは起きないんですね。

 
道を歩いてていきなりバタバターと足元から鳥が飛び立つ。
 
「なぜ?」とか、「どうして?」とか本当に起きないんだよねー。
 
それ、皆さん、経験あるんじゃないですか?

 
それが済んでから、「今のは何だったんだろう?」、「どういうことだ?」 
っていうような問題を起こす人はたくさんいる。
 
その時にはもう、問題がなかったところを通った後じゃないですか。
 
問題なく生活した後じゃないですか。

 
違いますか?
ちゃんと通れたんじゃないですか?
 

『正法眼蔵』はこうやって読んでみるとよくわかるように、 
『正法眼蔵』はそこに書いてある事を読んで理解するって
いうような事ではない事ですよね。
 
必ず自分自身のあり様としてそこがちゃんとしてるか、 
必ず問われています。

 
これが道元禅師の親切なとこでしょう。


もう一つ人間が生きてる場所があるならいいですよ。同時に。
今こうやって生きてるものと、もう一つ自分が生きてる場所があるんだったら、 
そっちがよければ、そっちにいけばいいんです。
 
ねえ、ところが、誰もよく見て下さい。
もう一つ生きてる場所なんかないじゃないですか。
 
時間的にももう一つの別の場所があるわけじゃないじゃないですか。
そういう事をまず熟知するべきじゃないですか。
 
ものを学ぶのに。 
 
 
パシッ(老師、手を叩く)
 
だからこの音を聞くのには必ずここで聞くしかないじゃないですか。
後にも先にも。
この場所で、
この時に。
この音を聞く以外にないじゃないですか。
 
あと、どこでこの音を触れる事ありますか?
一々そうですよ。
この音だけじゃなくて。生きてる様子見て下さい。
 
 
一々の生きてる様子は今ここで本当にその事が行われているだけであって、 
その他のところにどこにもないですよ。
 
 
そういう生き方を私達してるって事が脱落の身心と言われる所以でしょう。
何もかも離れ切っている。
 
要するに、私達が普段勉強して考えてる事と違うんですよ。 
このもののあり様は。

 
だからこのものの事実の方から学ぶんです。 

 
(老師、頭を指して)
この変な頭の方から学ぶんではないんです。
ここはつまらないものいっぱい詰めてますから、
そのつまらないものいっぱい詰めてる方から見たら、
そこにいくら真実が展開されていても
それを正しく見る能力は皆無に等しいでしょう。


どうしてそういう立派な人のところについて修行しているのに
きちっと問うべき事を問わないのか、聞くべき事を聞かないのか。
 
暑いという事はどういう事を言ってるのか。
寒いという事はどういう事を言ってるのか。
「そんな事、聞かなくたってわかってる」って、思うから問わないですね。


座禅もそうですねー、
「お寺に座禅をしたいから」と言って座禅に来る。
「何かわからない事ありませんか?」と聞く。
誰も何も言わない。
「では、座りましょう。」と言って座る。
 
問うべき事を問わないんじゃないですか?

 
一応パンフレットみたいなもの渡して、冊子のようなもので図解ができてるもの 
を差し上げる。
口頭でも多少話をする。一応の形はできる。
そして座る。

 
こういう座り方で座禅になってるのだろうか? 
修行になってるのだろうか?というような事ですね。
ここで言わんとする事は。



自分自身の事を本当に自分自身で見極めるって
誰からも指図される事ではない。
 
強要される事でもない。
 
人としてこの世に生まれて自分自身の事本当に知らないと 
いうのは哀れな事じゃないですかね?

 
なんで、この一個の中で、こうやっておりに触れて生活してて 
問題が起こるかって、よくよく見てみれば、自分自身というもの
わからないから問題が起きるんじゃないですか?
 
だってどこで問題が起こるかって、必ずここなんですね。
 
今以外のところで、問題起きた人いないんですよ。
 
問題起きると必ず、しかも自分の上なんです。
 
他所の人の体の上で問題が起きた事ありません。
 
必ず自分自身の上で問題が起きる。

 
その問題もですね、いろんなものにこうやって接触しますけれども、 
接触したその時に問題が起きるんです。
 
どういう風にして問題が起きるかっていうと、「何言ってんだー」、
「それどういう事だ?」、「あんなやり方ないじゃないか」
そうやって自分の中に触れたものに対して、皆自分のそういった見解を
起こして、それで問題起こしているんじゃないですか?
 
他にはないでしょう? 



「あー、なんてかわいそうな事か、私だけこんな事してていいのかしら?」 
そういって自分の中でふっと思うといたたまれなくなって、
「こんな贅沢してちゃいかん」と言って、
ご飯も食べずに人の為に施すような事する人もいるでしょう。
 
じゃあ、それずっと続けたらどうなるかって、 
自分は一週間食べずにいたら必ずおかしくなりますよ。
 
「みんな汗水たらして夜も休まずに働いている、私も」って言って 
一週間飲まず食わずに人の為にやるのはいいけど、ぶっ通しやって倒れる、
それ、皆考え方の生んだ愚かな事じゃないですか?
 
本当はそんな事が大事な事じゃないじゃないですか?
 
そんな無茶苦茶な事をしろっていうんじゃないでしょう?

 
もっと平凡な中に本当に誰もができて実行力があって、 
効果がある事あるんじゃないですか?
 
とにかく人間はそうやって、自分が触れたものに対して、 
自分の中で見解が起きるという事が
それから問題が起きてるんでしょ?
 
じゃあ回避するんだったら、その問題が起きてないところに 
目をつける必要があるんじゃないですか?

 
じゃあそれどこにあるか


人間の見解を起こす前にどうなってるかを見るべきじゃないですか?

 
触れたものが自分の見解を起こしてどうこうじゃなくて、 
触れたその一々のものが自分の見解を通さずに
それがどのように本当になってるか、それ抜きにして自分の好き嫌いで
ものを取扱って、ものが解決できるわけないじゃないですか。
 
参禅ってそういう事をするんじゃないですか。
 
本当に自分自身の今の様子に参ずるという事。 
 
用があるのはそこじゃないですか?

 
で、自分自身の本当の様子がない人は一人もいないんだから。
 
だけどすぐに見解が起きて自分の考え方でものを見る癖があって 
その前の正しいもののあり方のところに着眼する人ほとんどいないって事でしょう。
 
そういう事ずーっとこうやって伝えてきてる、そこやって欲しいという事を。
 
それが仏祖のかじょうなんでしょう、
で、あんまり当たり前だから修行にお見えになった立派な方々でも、 
立派な人のそばにいてもそれ以上追求するこない。聞く事もない。
 
そういう生活をしているから淋しいなと言ってるんでしょう。 

 

毎月一回木曜日、静岡駅から南へ徒歩10分の崇福寺 鯖大師で、
井上貫道老師の座禅会があります。
崇福寺臨済宗
 
夜6時半から9時まで、出入り自由、会費一回1200円、
25年続いており、正法眼蔵をテキストにして
井上貫道老師の提唱、お話があります。
会場などの詳細は、
井上貫道老師全国坐禅会日程にあります。



上記の文章の
引用元:http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11528265009.html
文中、脱落の心身とあるのは、脱落の身心 に書き換えました

(このブログは
井上貫道老師まとめブログです
すなわちネット上にある井上貫道老師の様々な語録と坐禅会情報を一つにまとめて、
学人の参学の便宜とするものです)

「佛道をならふといふは、自己をならふなり」 ―道元禅師


▶仏道とは、本来の自己を自分で本当に見届けて、それに動かされることです。  ―井上貫道老師

▶修行とは、どっか他所(よそ)でやるんじゃないんですよ。 ここでやるんです。
いつもここでしか生きていないんだから。
もう1つの今なんてないんですから。  ー井上貫道老師


 
 

『学道用心集』の提唱の最終日:

inouekandoroshizazen2ske2全体に一言でまとめれば、みなさん、一緒に目を通していただいてるとおり、
自分自身の、今、生活している、今、今、生活している「ここ」でね、
この様子に学んでくれれば、このことがみな分かるようになってる。


でその具体的には、人間の持っている、五官ないし六官と言われるそういう道具がありますから、
五官=眼耳鼻舌身  六官=眼耳鼻舌身意 
その道具の働き、それを「諸機能」と言っておられますが、
その諸機能は、みなさんが考えておられるようなつまらない働きではない、
もっともっと、底抜け、大きな働きをして、初めっから、飛び抜けた立派な様子であるということ。


だからそういうお互いですから、自分自身の、その素晴らしい働きをしている、「本来の相(すがた)」と言っていいですか、
「本来の自己」と言っていいですか「自分」と言っていいと思います、
そういう誰もが持ち合わせてる素晴らしさ、宝物がありますから、
それを自分で本当に見届けて、
それに生涯動かされて、
思う存分、悔いなく、生きていただきたいと、
こういうことです。


あとは、何か条か出てましたけども、「有所得の心」。
いろんな意味で有所得の心、
「あれが欲しい」「これが欲しい」「ああなってほしい」「こうなってほしい」
いうようなものが人間にはありますが、
そういう、ケチなというか、小っぽけなというか、(義衍)老師が「つまらない」と言ってるんでしょう、
そういうものを、少しいただいて、喜んでるようなことにならんように修行してください。


ま、こういうことですね。


あとはほとんど、いいんじゃないかと思います。


もう少し補足をすれば、「どうしてそれでいいのか」いうことでしょう。

みなさんが描いている、本当に「知りたい」「得たい」「なりたい」境涯。


そういうものが、今のみなさんがたの動きそのものに、全部、あるということです。
どっか他所(よそ)にあるのじゃなくて。


だから、修行の仕方、求め方、というものが、
目を他所に付けるのではなくて、
自分自身の、今、生活している、このことに目を向けて、
そしてそれが本当にどうあるか、いうことが基本的なあり方でしょ。


そうやっていきますと、当然、自分の考え方なんてものは、全く、要らなくなる。

そんなものに手を付けててもしょうがない、それこそ。


ここに実物があるわけですからね。
生活してる実物があるんですから、それを人間の考え方で手を付けて、壊して、どうこうするんじゃなくて、
この、生活してるこの事実に用がある。

それをそっくりそのままいただいてみる。考え方を通すんじゃなくて。

それだけを、丁寧にやってくれれば、修行になるでしょ。






私たち自分が今生活してる様子が、坐禅の時は坐禅をしてる様子がある。
そんなにはっきりしているのに、そのことに参じて、触れていながら、生活を自分でしていながら、
そのことが自分でどうなっているか分からないっていうほど、愚かであっていいわけがない。

いわゆる、自分の生活を本当になおざりにしてるっていうことになるでしょ。


要するに、この今生活してる中に大事なものがあると思ってないから、いい加減にしてるんでしょ。

もっと他に大事なものがあると思ってるから、ここ今生活しているこの今のありように本当に目を向けていないのでしょ。


ところが、これも理論的に話したら少し理解がいくと思うんだけど、
私たちは、いついかなる時でもですよ、時間の上から言ったら、「今」だけですよ。
いるのは、自分がいるのは。

場所的に言えば、このものがいる「ここ」と言われる場所だけですよ、いつも。
そっから離れたことがないですよ、「今」とか「ここ」とかって言われる。


何十年生きようが。


嘘だと思うなら自分の様子を見てごらんなさい。
この身体のある所でしか生きてないでしょ。
この身体が行った先々でそのとおりのこのまま生活をしているだけじゃないですか、生涯。
それを端的に言えば「今こうやってるだけ」でしょ。


今だって「これ」以外にないでしょ。自分の生活してる、場所、時間帯。
だから、ここで勉強するしかないんですよ。このことで。


ところが、頭がちょっとおかしいもんだから、
「こんな所に?」って思ってますから、
「もっと他の時間帯/他の場所に行ったら何かいいことがあるんじゃないか」、端(はな)からそう思ってる。
そういう考え方の上で修行しちゃ、駄目ですね。それは修行にならない。


事実を抜きにしてものを学ぼうと思っても通んないですよ。


もっと普通に言えば、お茶の味を本当に味わいたいのに、飲まないでお茶の味を知ろうと思ってるのと同じぐらい愚かですよ。
やってごらんなさい、飲んだら必ず分かる。

どうもしないでも。

ここ(頭)じゃない。
これ(お茶)が教えてくれるの。


そうやって勉強するの、修行するの。

私の都合じゃないから、必ずこの中に入ってるお茶の味がするように出来てる。
いくらたくさんお茶碗があって注いであっても、他の人のお茶碗の味は絶対こうやってしないように出来てる。
そんなにはっきりしてる。
迷わないように。


それで十分じゃないですか、
このものの中に入ってるお茶の味が飲んだ時したら、それで。


このまま飲んだ時、他の人の中に入ってるお茶の味がするようだったら、もう人生めちゃくちゃだ。(笑)

そんなこと一切ない。

基本ですね。
修行、修行をどういうふうにして、どこで、何に学ぶのか、どうあるのか。

坐禅の組み方 http://zazen.blog.jp/archives/1029047318.html   ※
に図を挿入しました

hokkaijoin 








法界定印(ほっかいじょういん) 



坐禅の組み方 つまり坐禅の時にどのように身体を整えるかについては、上記※にありますが、

坐禅する間、どのようにして過ごすのか、坐禅の仕方については、

メニューの「座禅の仕方・坐禅の方法」をクリックすると、すべての記事が読めます。



坐禅は、道元禅師の普勧坐禅儀による只管打坐をすべきであると井上貫道老師は常々言われています。

数息観、公案工夫(公案禅)を用いません。

 

仏道は理想を追求することではない
仏道は人間が描く理想とは関係がない




▶多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。

それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。

ー井上貫道老師 



risokyoheart●人間が理想を画(えが)いていると、いかにも立派そうなんですけれども、

それが迷いの根源なんです。

それを人類ことごとく知らんのです。(井上義衍老師)



●人間の考え方が、どんなに立派な考えでも、それは、

その人間、その人の考え方なんです。(井上義衍老師)





Q.
「貪」「瞋」「痴」の中で一番大事なのは何ですか?

A.
大事というより…言ってみれば不要なものでしょうね。

Q.
一番それを破りやすいのは「瞋」(怒り)でしょうか?

A.
いや、一番破りやすいのは「痴」、ものが分からないということでしょう。
だから貪りや怒りが出るんですね。
なんで貪ってるか、なんで怒りが出るか分からないから、いくら抑えても取れない。

それは普通の教えだから。人間の考えた上の話だから。
いくらそれをやっても、努力してもすぐにだめになるね。

それは仏教の教えではないな。

いわゆる倫理道徳の世界ですね。

それを要らないとは言いません。




Q.
分かるようにするにはどうすれば?


A.
こうやって生活している時の、自分のありように目を向けることです。

それは本当に「平常心」と呼ばれる、常日頃生活している中に答えがある。
 

簡単に言うと、たとえば、いきなり出会った人に対して先入観がないってことがあるでしょ。
先入観を持てない。

先入観がない時には、余分なことが自分の中から起きてこないでしょ。


だから腹が立たないし、もっとどうかしてほしいとかいうことも思わないし、触れたままのことがはっきりしてます。


そういうのをみなさんが日常毎日、本当はきちんとやってることでしょ。


初めて触れることばっかりでしょ、本当は。



でも、初めて触れるってことがどういうことか知らないから、
「また会いましたね」っていうことになってる。

「初めて」ってことを見ていません。


今こうしてこうやって動いていること自体が今初めてのことなんですね、本当は。

生きてるってことは、一度も経験したことのないことをやってるんです。


お湯呑みを持つにしたって、今まで持ったことないわけです。
 
初めて今こうやって持ったんです、この持ち方はね。
 

前も持ったことあるかもしれないけど、この持ち方、触れ方は今初めてやったんです。

この味も、何回もお茶を飲んだことあるかもしれないけど、この味は今初めてなんですね。


初めての時には、今言ったように、先入観がないんです、入れたくても。


そういう自分の動きを見てみると、貪りも起きていない。

そのままの味をそのままいただいて、それ以上欲しいともなんともなく、この味だけで足りてる。

だから腹も立たないでしょ。
はっきりしてるでしょ。


そうやって修行するんです。
 
それが仏道の修行です。



全然違いますね、だから。



Q.
そういうものは、出家して大きなお寺などで修行していると、自然に身に付くのですか?

A.
それは違います。

zazenshisenwitheyesopenshalftone
修行しなくても、誰しも初めっからこうなんです。

だから大事なんです。
修行した人たちだけが出来る教えでは役に立たないんです。

もう、はなっから。みなさんに用が無いじゃないですか。

修行してないんだから。

そうじゃない。

誰でも最初からちゃんと出来ていることなんです。


出来ていることなんだけれども、知らずにいるから、それを自分で、なるほどと自覚をしてほしいんです。


自覚をするためにはほっとけないから、必ず自分で修行をせざるを得ない。


どういう修行をするかっていったら、自分自身の今の様子に目を向けて、それをきちっと見極める。


自覚をするっていうことは他の人では出来ませんから、
否応なしに自分でやるしかない。




こういうように修行が約束されていくわけです。他人から勧められるわけじゃなくて。


     (略)

本当に、誰でもがそういうふうにきちっと出来てることがある。

それを釈迦って人は自分で見届けたから、実行して、
人にも伝えて、人が育って、
何千年も絶えずに来ているんです。
 

だから根本的に違うんですよ。



このようにコオロギが泣いているでしょ。

修行した人だけが聞こえますか?

 
修行してない人でもこのとおり聞こえるでしょ。
 

そのことが修行の根幹なんです。

ひとつも人を騙さない、迷わせない。
 

ちゃんとあのとおり鳴いている。


でも自分の中に受け取り方っていう、考え方や、今まで育ててきた物の見方があって、
そういうものを通して聞くようになると、
「あれはミミズが鳴いているんじゃないか」って言うと、
「いや、そんなことはない」って、誰でも言うでしょ。

学問があるから。
そうやって、必ずなってる。


だけど、あの鳴いている声に対しては、どんな表現をしても変わらないんです。
本当は。


でも言葉を変えて言うと言葉の上で問題が起きる。
 

要するに、聞いていることに用の無い人が、
考え方の上で問題が起きて、その考えの上で問題が起きると、
それをお互いが「正しい」「正しくない」ってやってるだけで、
本当のものを見る力をすぐ忘れちゃう。



それはもう修行にならないですね。

修行ってそういうことじゃないですね。


そこが、たぶん、一番伝わっていない。


だから、せっかく坐禅しても、ほとんどの場合「ちょっと気持ちよかった」程度で終わっちゃう。

     (略)

昔から、人が育つのは、この禅会のように、一握りの人が集まってやってるようなところです。

誰からも権力的に支配されずにやれるからね、独自に。


だから、皆さんが自分で情報を探し、検索し、いい指導者を探すしかない。

買い物と同じようにね。
 
自己責任です。


昔からそうです。
 
いろんなところを旅し、話をし、この人に教えてもらいたい、とそこに逗留し、修行してたんですね。 諸方行脚。


今は人の噂だけでやってる人が多いからね。

自分で実際に行ってやってみないとつまらないね。

昔より簡単に指導者を探して行けるのにね。
そういう時代になればなるほど、軽率にものを扱ってるかなあ。
 



「坐禅が進んで、内も外もなくなった人がいます

こうなると人生観が変わりますよ」

[ これが悟りだと言われているのではありません 念のため ]
ー(2014年夏の緑陰接心の提唱:接心3日目)井上貫道老師
 

(このブログは実践を前提に書かれています

更新がなくても、
今までの過去記事を
一番上のメニュー(スマホの場合はカテゴリー)から、
じっくりと学んでいただければ幸いです)




● 一般には、この身を境界として、自分と自分以外に分けて考えていますね。
 
いわゆる自分も、自分以外の世界も、自己と言います。






niwa
● この身だけが自分の様子ではありませんよ。

何から何まですべてが自分の様子です。









● 本当は目、耳と区切ることはできないんです。

これら全部が自分の様子、全体です。






● 大抵の人は、自分に入ってきたものを、あとから眺めているんです。

だから満足できないんです。




● 「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。

「ザワザワザワザワ・・・」、これこそが本当の受け身というんでしょうね。




● 坐禅をどうしたらよいか知らないもんだから、
坐禅して少し心が静まってくると、すぐに居眠り坐禅してしまうんだね。

長年参禅している人は、たいてい寝ていますね。
10年、20年坐禅している人は皆そう。

寝ることは坐禅とは言いません。




● 専門家に坐禅を指導すると、

「今日は、よく坐れました(=よく坐禅出来ました)」

とか

「今日はあっという間に坐禅が済んだ」

とか感想を述べますけど、そんな程度なんだね、専門家でも。


そういうのは坐禅とは言いません
[ 専門家に対する批判ではなくて、坐禅会のわたしたちも、そうじゃないですか? と言われているのです ]





● 道元禅師の『普勧坐禅儀』に則って坐禅することが不可欠なんです。
   普勧坐禅儀 ふかんざぜんぎ

 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958258.html
にて学んで下さい




Q.
普段から修行や正しい行いを続けて行こうと思うのですが、なかなか忙しくて難しいです。
継続していくのが大変だなと思います。

A.
考え方として申し上げるならば、こうやれば楽になるんじゃないですか -- 
 
つまり、これからずーっとそういうことが出来るかと考える必要がない。
 
今、きちっと出来さえすれば。ただそれだけなんですね。


人間て不思議ですね。
 
こういう状況がずーっと続かないといけないって思っている。
 
でも実際は、今のこの状況が続くなんてことではなく、
いつも今のこれがきちっとできるかということだけです。
 
今日一日出来るかしら、なんて、そんな長いことは考えない。
 

今やってることがちゃんとそこで出来ればそれでいい。


こういう話をすると、「今、今、今って、そんなことだけやってるのは、たまらん」という人がいる。 

考え方だとそうなっちゃう。

「これ飲んだらこれだけ」「これ食べたらこれだけ」なんて、
それは考え方。


普通、
これ飲んだら、自ずからこれを飲んでいる時だけの様子になるし、
食べたら食べた時だけの様子に、必ずなっているんです。

心配ない。






Q.
坐禅をすると、わーっといろんなことが出てくるんです。

A.
実際には普段から出ているんです。

でも普段はいろんなことで気が紛れているから、出ていることに気がつかないだけです。


坐禅をしていると他のことが収まるから、
いろんなことが出ていることに気づくだけです。


その出ていることを抑えようとするのは、かえって心を騒がしていることになるでしょ。

だって、出てきてしまったものをあとから無くそう無くそうとしているわけだから。


出てきてしまったものはどうしようもないのに。
 


そうではなく、
出たものを出たままに、何も手を付けずにいれば、
全然心を煩わさないよね。

これが本当の「心静か」ってことです。





● 仏道修行は、
今ここ で修行します。

「今」というと、「この瞬間だ」と言って、
「イマッ!」と切り出そうとしますが、
今はそんな風になっていませんね。





● 本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。
 
だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。





● 修行は「思い」ではないんです。

「こうやればいいんだ」って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。




● 参禅は、「今の自分自身の様子」に参じることです。

そのために見聞覚知の六根を開放するのです。




● 五官にまかせる とか 六根を開放するって、
見えること、聞こえることを 観察するんじゃないですよ。
観察する自分などいないのですから。

「見ている」「聞いている」って風じゃないです。

だれかが言いましたね。
「主なくて見聞覚知する人を、いき仏とは是をいふなり」

 [至道無難禅師しどうぶなんぜんじ:白隠禅師の師の正受老人の師]





● 坐禅を◯◯の方法で10年やって来ましたという人がいたら、
10年やってどうなったのですか?
と尋ねてみてください。





●概念だけを取り上げているんです、実物じゃなく。

それが人間の世界です。


実物があるにも関わらず、実物の話をしないんです。


仏道ってのは実物です、
扱うのは。


実物は私には必要ない、って人はいないですね。



宗派に関係ない。
宗教に関係ない。

こういうものが仏道なんです。


  この記事のタイトル中:内外打成一片 ないげだいじょういっぺん と読みます
 

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