坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an Enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

老師が提唱しているのではなくて、自分が提唱をしていたー一参禅者の体験




井上貫道老師のある坐禅会が終わって、会場片付けの時に、何人かの人が老師の周りに集まってきました。

その中の一人Wさんが言われました。

「実は、このところ坐禅をする時間がなくて、今日はガッツリ坐禅ができました。


300kandoroshiteishoatkobepen今日ですね、


老師が提唱しておられる時、


あれー、自分が提唱しているわー   ってなったんですよ。




……なんじゃらかんじゃら……



それから、老師が言われた人の話を聞いていないというお話、
わたしも、自分の子供の話を聞いていないということ、ズンと響きましたわー」

*************

井上貫道老師の提唱中に、提唱しているのが貫道老師ではなくて、自分が提唱している
ことに気づかれた体験でした。


Wさんは一般のお勤めの方です。
井上貫道老師に参禅始めて多分一年くらいでの出来事です。1年経っていないかもしれません。

「ちょっと気をつけて坐禅している人は、気づきが来ますね。 一旦気づきがあるとガタガタッと変わって行きますね。」―井上貫道老師




「…ほとんどの人が、

『私たちの生活しているのと違った別な教えが、諸仏方、悟りを開いた人たちにはあるんじゃないか。

だからそういう人たちの素晴らしいものを、できたら自分も味わってみたい』

そう思って間違えているのでしょう。

そもそもそれが間違えなのでしょう。

なんで今こうやっているのに、これで満足できないかを尋ねた方がいいのでしょう。

何が満足させていないのですか? 

それを本当に追求するためには、今まで使ってきた思量分別を一切使わずに、この事実にいて [居て]みることなんじゃないですか? 


それが、坐禅と言われる行なんじゃないですか?」 ―― 井上貫道老師




◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇



上記体験者の言葉で、子供の話を聴いていないという話というのは、

老師:
「親って、子供の話を聞きませんね。
子供の話を聞いたら、その話で出たものを買ってあげないといけないもんだと思いこんでいるものだから、
最初から、子供の話を聞かない。

子供の話を聞く ということと 子供の話で欲しがっているものを買ってあげないといけない ということは別なんですよ。

話を聞いても、買うこともあるし、買わないかもしれない。


子供だって、ちゃんと親の経済状況を分かっているから、
話を聞いてもらったら、あとは、我慢することだってできるんですよ。

それくらい子供は賢いですよ。」


と井上貫道老師がその日の提唱と質疑の時間に話されたことからです。



体験談をすべて読む



上のボタンをクリックすると井上貫道老師参禅者の体験談がすべて最初から読めます。





【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューはしていません。

また名前を知っているのは、このWさん以外に2人くらいで他の体験者達の名前は知りません。
体験談を坐禅会中などに話されることがあっても、そもそもその人の顔を見ていないので、男女以外分かっていません。


上記Wさんのように、個人を知っている人であってもできるだけ個人を特定できないように余分な情報は書かないようにしています。使用した人名のアルファベットは、その人の本名とは全く関係がありません。ZからAまでを、日本人の姓にならないものは除外して使っていきますので、まずはYさん、次はWさん、次はUさん、Tさんという順番になります。



井上貫道老師に参禅を始めて1年で気がついたサラリーマン



 
これはある人Yさんの体験談です


わたし [このブログ投稿者] が、井上貫道老師の坐禅会に出た帰りのことでした。駅近くでYさんに出会って、多分初めてこの人に話しかけました。

前日の他所での貫道老師の坐禅会での一参禅者の人がちょっとした見解を話されたので、そのことについて、前夜も出席されていたYさんはどう思われますかということを尋ねました。


Yさんは、坐禅に真剣に取り組んでおられること、かならず井上貫道老師の独参の列に並んでおられること、経行(きんひん)(歩行禅)の姿が美しいことで、以前からはその存在には気づいていました。

僧侶ではなくて、企業に勤めていた一般人の方です。 


その時のわたしの質問に対してどう答えられたかは覚えていませんが、続いてこう言われたことをハッキリと覚えています。



「こういう会話って、この坐禅会の人ってあまりしないんですね。

実は、わたしは貫道老師に参禅始めてちょうど1年くらいの時、見性したんです。
[ 当時は、この「見性」という用語をYさんが使われたかどうか、記憶が定かではありません ]


攝心の時に朝の坐禅で、坐禅終了の鐘が鳴った時に体験がありました。
zendohansho 


貫道老師に出会ってから、言われたとおりに修行していただけです。

修行ってとても簡単なことだなと思いました。

 


そうそう、
そのあとの体操の時に、雨だったから本堂で体操があったのですが、インストラクターの人に向かうと、インストラクターの人以外誰もいないんですよ。
とても面白かったですよ。※




でも、そういう体験があるとどうしてもつかんじゃうんですね。」





投稿者「その体験のことを老師には独参で言われたのですか?」


Yさん「はい。 老師にも、その体験の内容ではないぞ、掴んではいけないよと言われたのですが、つかんじゃいました。」
(実際には老師とYさんとの間にどのようなやり取りがあったのかは不明ですのでご注意下さい)




Yさんの体験について、その時はもっと質問したいことがあったというか、体験の時は、どんな感じだったかもう少し詳しく知りたかったのですが、修行上の先輩であるMさんの所に行く約束があるということで時間切れになりました。

その後もYさんと話す機会はありましたが、人の体験については、興味がなくなってしまっていましたので、彼の上記の体験については、それ以上尋ねたりすることはありませんでした。


      *            *           *            *           *            *           *            *

 

Yさんは貫道老師に参禅を始めて1年で気づきを得られたのです。
その前に一度だけ、宗門の専門僧堂で修行僧に混じって、攝心をしたことがあったと話されていました。

体験を掴んでしまわれたので、終わりとはならず、それ以後も坐禅修行と参師聞法を続けられました。


ずっと、あとから分かったことですが、その人は、老師の指導される正しい坐禅が本当にすぐにできるようになったそうです。



「真っ正直な人って、修行が速く進みますね」 ―― 井上貫道老師


「一ヶ月に一度坐禅会にやって来て、そこで修行を思い出すのでしょう。 普段は何もやっていないんだね。
それでは、絶対に [修行成就は] 無理ですよ。
何年かけても無理。

世の中のことでもそうでしょう。

実践したら、一ヶ月もあれば何かあるはずだから、どうなったか教えてください。
やっていないと疑問も何も出てこないでしょう?」

―― 井上貫道老師
[ 井上貫道老師坐禅会では、必ず、質疑応答の時間があります ]





※[攝心 (せっしん) というのは、在家の人も、仕事は休み、人間関係を絶ち、ニュースやTVやスマホを見ずに、日記もつけず、すべてをお預けにして、道場に泊まり込んで行なう合宿型の坐禅修行期間のことです。
朝から寝るときまで坐禅を中心に一心不乱に修行に専念します。この期間は、心おきなく自分の様子に親しくいることができる大変貴重な時間です。

師家(老師)を指導者として、坐禅、提唱(ていしょう)、独参(個人指導)で構成されています。 食事は1日3度ありますが、食事を摂るのも、トイレも、昼の休憩中も、形の異なる坐禅修行になります。
提唱の講本以外、文章を読み書きするのも禁止です。 


よくある荒行のように、食事も睡眠も制限されることはありませんし、1日11炷と言っても、人と一緒にするので、よほどでなければリタイアするような厳しさはないので、ついつい、甘く見て真正面から取り組まずに、ただ外見上は坐禅の形を守るだけで数日を過ごす人もいないわけではありません。

あくまでも内面でどのように自分の今の様子と親しくいるかが問われますので、摂心のあとは、人によって大きな差が生まれてしまう行でもあります。


道元禅師や井上義衍老師は道場で、一夏90日間の安居期間中は、隣で坐禅している人の顔を見たことがなかったと言われています。 




この体験談当時は、攝心の暁天2炷の坐禅のあと、朝課(朝のお経)があって、その後、戸外で体操をしていました。その時は雨降りだったので、本堂でしていたようです]




【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
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cover_teisho1kindle20170707small真実、悟り、禅修行とは(1)
道元禅師『学道用心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録』
(井上貫道提唱、2016年)


※書籍タイトルを『井上貫道老師提唱録 修行の大前提:真実とは、悟りとは、修行とは、禅とは』から変更しました


詳細・ご注文はこちらから
(新しいウェブページが立ち上がります)
https://satorizen.wixsite.com/satori/blank


 真実に気付く(悟る)ためにはどうすればよいのか。十代で悟りを開いた井上貫道老師が、修行の大前提としてまず理解するべき基本(真実、悟り、修行、禅とは何か)を、道元禅師の『学道要心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』を紐解きながら、懇切丁寧に説明。さらに只管打坐の坐り方についての具体的な説明も独立した一章としてあり、即実践を始められるようになっている。真実を求め、修行を志す方は必読の書。


真実、悟り、禅修行とは(1): 道元禅師『学道用心集・普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録ー井上貫道老師語録がAmazonから出版されました

 

修行の大前提:悟りとは、修行とは 井上貫道老師語る

井上貫道老師提唱録が8月28日、出版されました
※書籍タイトルが『井上貫道老師提唱録 修行の大前提:真実とは、悟りとは、修行とは、禅とは』から変更されました



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今年5月にある曹洞宗寺院で、井上貫道老師を師家に迎えて攝心が行われましたが、その時の攝心の提唱がまとめ上げられて書物(電子ブック)になりました。

井上貫道老師とは、こちら

(本書初版中の、貫道老師の生年1943年は正しくは1944年(昭和19年サル年)です 9月2日以降のものは訂正済み)


初日の井上貫道老師の提唱は特に素晴らしく、法悦にむせび泣く方が続出しました。
爾来、静かで熱心な攝心となり、5日間の修行が円成しました。


 

その井上貫道老師の提唱の録音を、在家のお弟子の一人が文字に起こし、貫道老師の最終チェックを経て一冊の書籍となりました。
 
今回は電子ブック*としてAmazon Kindle本での出版です。
 (そもそも Amazonあまぞん って何だ?、という人には、このページ最下部に登録方法を書いています 電子ブックの扱い方も下に書いています)

 
『井上貫道老師提唱録amazon kindle版』の
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不安な方は、上記URLで、無料サンプルをお試しください

*電子ブックリーダーがなくても、アプリを使用すれば、パソコン、android、iPhone、iPad などで読めます。
また、一度購入されると、同じAmazonアカウントでログインすれば、スマホでも、タブレットでもパソコンでも読めます。(パソコン・スマートフォンでの扱い方はこのページの最下部に図解しています)



9月1日付記:製本版も他社から出版されました⇒ https://satorizen.wixsite.com/satori/blank

お支払いは、コンビニ決済、各種クレジットカード決済、楽天ID決済、Paypal決済が可能です。
注文を受けてからの印刷・製本なので、本が届くまでは1週間前後かかります。
 



※ (攝心とは、数日間諸縁を放捨して、朝起きてから夜の就寝まで、他と会話せず、休むことなく油断せず、修行三昧となる修行期間 1日11炷から12炷の坐禅、提唱、独参あり)
この攝心は、僧俗合わせて総勢30名 (定員あり) の参禅者でした。
女性の参加率が高く、他所の坐禅会に比して平均年齢もかなり低かったようです。


さて、その井上貫道老師ですが、大阪の由緒ある古道場にて1日坐禅会を定期的にされていますが、
井上貫道老師大阪坐禅会の提唱DVD(手製)も頒布中です。
 『普勧坐禅儀』提唱と質疑合わせて約90分 頒価1回分1枚500円、送料200円
 ご注文は、 https://ssl.form-mailer.jp/fms/581a3b42462652 
 (ネットのみの注文です)

    売上は、関西での貫道老師坐禅会の運営に使用します(会場費や備品代と講師交通費に充当)



【『井上貫道老師提唱録』本文より抜粋】 

「…修行するっていうことは、思量分別を扱う世界じゃないのですね。
それをやったら、ものの真相がほとんど永遠にわからない。

私の前に生きてきた人たちが、何億もいるでしょう。そういう人たちが皆、経験したことなのですよ。…
気が付いた(悟りを開いた)人たちは、そういう(思量分別を扱う)ことをしないで、それで初めてものがわかったと皆さんに伝えているのだから、信じたらいいじゃない。
数から言ったって、膨大な試験をやった上で、それが事実だっていうことは、もう明白なのです。
一万人に飲ませたら、たった一人しか生き残らなかったというくらいの毒薬だったら、飲まないでしょうが。

…それだのに、思量分別を取り扱うこと止めなさいって言っても、止めない。死んでもいいと思っているのだよ。」




◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇

この度の出版ですが、心に響くところがあれば、
老師に実際にお会いして、法を尋ねてくださることを希望します。
書物よりもライブに勝るものはありません。

東京、静岡、関西、岡山などで毎月坐禅会がありますし、アポイントを取って老師に直接お会いに行かれることも可能です。


全国各地の 井上貫道老師坐禅会情報 は、こちら↓
 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958259.html

(各地の主催者の求めに応じて、その地で坐禅会が開催されています)

◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇




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また、一度購入されると、同じAmazonアカウントでログインすれば、スマホでも、タブレットでもパソコンでも読めます。


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これらのアプリを使用することで購入した書籍が読めます。



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「この頃諸方坐禅をゆるくするが故に、仏道衰えたるなり」  ー道元禅師


▶死ぬまでに一度でいいから自分自身が本当はどうなっているか、自己の真相に気づいてほしいですね
ビックリしますから  ―井上貫道老師



まもなく、井上貫道老師語録(今までに未掲載のもの)がまとまる予定です 詳細が決まりましたらここに発表します
2016年9月 まとまりました。こちらの記事です⇒ http://zazen.blog.jp/archives/cat_1228032.html

以下の記事は過去記事の再掲載です
   井上貫道老師参禅者の体験談 をもご覧下さい。

体験談をすべて読む



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体験談はあと4人あります



過去の少林寺摂心・接心での井上貫道老師提唱から

[  接心とは、在家の人も、諸縁を放捨して、道場に寝泊まりして、坐禅修行に専念する数日間
テ レビ新聞携帯メールLine見ない、電話にも出ない、参加者同士挨拶も不要、お互い話をしない、自己に参ずるのみの期間 この期間に修行の進む人、悟る人昔から多 し 道元禅師は、修行時代、90日間の安居期間中、隣で坐禅する人の顔を知らず 接心のことは欧米では禅リトリートと呼ばれる ] 
 

今回は「普勧坐禅義 提唱録」(井上義衍老師)を、井上貫道老師が提唱してくださいました。
以下、最終日の提唱より抜粋。

●漫然と坐っている人は寝ちゃうね。
「何もしないのが坐禅」って言いながら・・・。
三十年も坐ってる人は必ず寝ますね。

今の様子に参ずるのが下手なんだね。

寝たら坐禅になりませんよ。




● 眠るのは坐禅の大敵です。

坐禅ってどういうことなのか、よく分かっていないからボーッと眠るんです。




● 坐禅の間には休憩時間がありますが、あれは休憩ってわけではないですよ。

その時間におしゃべりしたりすると、人間は会話に引きずられますからね。

せっかくの坐禅が台無しになってしまいます。




● 接心や坐禅会に来て、おしゃべりをする人は、絶対に修行ができていませんね。
何の世界でも一流の人が自分の仕事をする時は、おしゃべりをしません。

一流のシェフがおしゃべりをしながら、料理を作りますか?

修行者は話をしないものです。

 
 
 

● 「坐禅」というのは、今の実相、活動にそのまま親しくしていればいいんです。
 
「ただ坐る」というのは、
事実、実相、この(自分の)一大活動に親しくいることです。



事実との間に距離がないからこそ「手を付けない」という表現になるわけでしょ。



観察するのではなく、事実のままにあることです。





●今の様子に親しくいれば、先ほどの様子は微塵もありません。そのことで十分です。




●悟っている人も、悟っていない人も、(手にした杖を立てて)こうすればこう見えるでしょ。




● 生きているうちに片を付けないと、ものにならないですよ。
使えません。

できるだけ若いうちに決着を付けて、長い間役に立ってください。

だから修行をぐずぐずしないこと。





zazenkaisaichuske● 近い人も遠方の人も、わざわざこの寺に来て接心しようというわけですから、社会のことをここまで持ち込むのはもったいないですよ。

世間のことは打ち捨てて坐ってください。




●本気になって求めると言ったりしますが、本当に坐りたければ坐るもんですよ。

他人がおしゃべりしてようが、寝てようが、そんなの放っておいて坐りますね。




●本当に気になっていれば、四六時中そのことが心から離れないですよ。

気にかかっているものを放っておけるわけがないんです。




●「言うとおりやってみようか・・・」なんて遠慮がちにやるからスカッと行かないんだね、半分ぐらいの人は。(笑)





●「作務」は、一般の仕事とはちょっとおもむきが違います。
ただそのことをそのこととしてやるだけです。

人のためやお寺のためではありません。





●達磨大師は9年間坐禅したと言いますが、9年かけて悟ったのではありません。

すでに悟った上で、坐禅というものの実物を9年間見せ続けたんです。

そして慧可という弟子が得られたんですね。

 ※達磨大師面壁九年で二祖慧可大師を得る 
慧可は達磨大師の前で本気を示すのに、臂(肘ひじ)を自分で切り落としたと伝えられている
この故事に因んで、臘八大接心のあと12月9日に断臂接心(だんぴせっしん)をする道場がある






●なぜ「自分自身に徹見せよ」というかというと、生涯、この自分自身の一大活動しかないからです。 
これこっきりだからです。




   井上貫道老師参禅者の体験談 をもご覧下さい。




真実というのは、自分の思慮、分別、考えかたをやめてみたときの自分のすがたです。


事実を人は思考で汚しています
「思い」というものが人をたぶらかして、真実からかけ離れさせてしまうのです。

―井上貫道老師



*************************************************************************************************

◇ 目に見えるもの、耳に聞こえるもの、これらはすべて自分自身の様子なんです

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。



◇ 六根(眼耳鼻舌身意)の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。



◇ (机を叩いて)「コン」とやると、
音がして気がつきますね。

音がするから気がつくんです。

気がつくのが必ず後になります。

気がつくより先にこういうこと(「コン」)があるんです。


これを丁寧によく見ていけば、それは人間の好き嫌いを超えているものだということがわかります。

そういうことに学ぶのが坐禅です。



◇ (外を車が走り去る音に)「ブーーーー」だけじゃないですか。

これだけです。

これだけじゃないですか。 




◇ 考えを「やめる」んじゃないですよ。
 



◇修行とは何もしないこと



◇五感を自分のために使うことをやめる



◇思いが起こってもそれを相手にしない、手をつけない  [思考を観察することでもありません]



◇思いがでないようにするのではありません




*************************************************************************************************




『意根を断つ今一度坐禅について』後編


静岡県少林寺住職 井上貫道

 人の行ないというのは、1回1回完成度100%の真実なのでありますが、自分思いからいえば、 「完璧ではなかったな」と思うことがあるかもしれません。

歩いていて、転んだりなんかすると、 「あっ、失敗した」と思う。

でもそれは、そう「思う」ことであって、目の前の事実は違う。

歩い ていて転んだら、転んだようにあるだけ。

それで何も悪くないのです。

それなのに、転ばないこと が人の求めているすがただと思っている。



 真実というのは、自分の思慮、分別、考えかたをやめてみたときの自分のすがたです。

まだ認識というものが育たない子どもさんたちがそうですね。

赤ちゃんには、ものにたいするこだわり はまったくありませんから、だから天真爛漫と表現されるようなすがたがある。
 

 ところが、赤ちゃんを抱き上げたとたんに泣かれたりなんかすると、私は嫌われているんだなと思う。

それなのに、「あの人の時は泣かないな」となると、「あの赤ちゃんは私が嫌いだ。あの人のことは好きだ」とこう思う。
「今度もまた泣かれるだろうな。いやだな」と。

ただ、こちらの姿がそのままその時赤ちゃんに伝わるから、泣いたり笑ったりするんです。

赤ちゃんのほうには、こだわりがないんですよ。

だからいくら大きいダイヤモンドをあげても、かたいし甘くもないから見向きもしません。

逆に汚いものでも口に入れて、うわーっとみんなが慌ててとるなんてことが起こる。

 

 だから仲良くなると、大事にしているものでもみんなくれますね。

先日、3歳ぐらいの子ですが、 私の名前を覚えて「貫道さん、貫道さん」と言いながら、お菓子を「これも、これもあげる」と手渡してくれました。

私が坐禅堂へとすがたを消しましたら、向こうで大きな声で泣いていました。

ところが泣き疲れてくると、そのうち知らん顔して、それで終わり。

でも、おとなはこういうことに弱いですね。 すぐに「ああすればよかったかな」なんて思う。


 なんにでもそうですが、すぐに余分な思いが起きてきます。

そして、「ああすればよかった」、 「こうすればよかった」と思いをいっぱい重ねて、しまいにはどれがもとの色だったかわからなくなってしまう。

「思い」というものが人をたぶらかして、真実からかけ離れさせてしまうのです。





 思いから離れ、目の前のことをやる

 これから道元禅師が残されたお言葉を参考に、お話を進めてまいります。

まず、
「修行の用心を授くるにも、修のほかに証を待つ思いなかれと教ふ」
とあります。

修行はどうしたらいいか。今やっていることの外に、なにかもっと素晴らしい世界があるのではない。

今にそいきれない人が、むなしさを感じるのです。

今から目が離れてどこかに探し求めるから、いよいよどうしていいかわからなくなる。

ただ純粋に、今のことをやりさえすればすむということです。



 ところが「なんで私が? どうして?」と、こういう気持が次から次に起きてくる。

その思い にしばられて、結局やれなくなってしまう。

やれなくなった自分がいやになって、卑下をしたり、落ち込んだり、結局もっと苦しむことになる。

そこへ人から「なぜやらないんだ」なんて言われると、 もう、もっといやになる。
たまらなくなる。

みなさんは身に覚えがないですか。


 おとなりの中国に昔、趙州さまという立派な和尚さんがおられました。

大勢の修行者が訪ねたそうですが、ある日、はじめて趙州さまのもとに来た人が、「どう修行をしたらいいですか」と尋ねられたそうです。


すると「朝ご飯は食べたかね」と逆に問われた。

 みなさんどう思われますか。どんな修行をすればよいのか尋ねているのに、この返答。

この人ちょっとピントがずれているんじゃないかと思いませんか。


 ところが修行にやって来た人、「朝ご飯は食べたかね」と自分の耳に聞こえるから、「はい、 確かに食べました」と答えたそれだけなのです。

すごいでしょう。

みなさんはこういうふうにできますか。

みなさんの場合は、すぐに思考回路が働いて、
「なんで修行のやり方を教えてくれないんだ。不親切じゃないか」
くらいのことを思うのではないですか。


 ところがこの2人、

「朝ご飯は食べたか」、
「食べました」、
「それなら器を洗いなさい」と、

それだけ。


修行の場でなくともわれわれの日常に転がっている話です。

これが、目の前にあったら 次から次へとやればよいということの一例になるかと思います。

 

 他にも例えましょうか。

本を速く読もうとして、先のほうへと字を追って読む。

でもそうしているうちに、なにがなんだかわからなくなってしまう。

結局は速く読みたいからといっても、書いてある内容が正しく読みとれなければ、本を速く読んだことにはならない。

われわれの生活も、いろいろあって忙しいと言いもし思いもしますが、実際には1つずつやるだけなのです。

うっかりすると 忙しさにだまされて、こころまでいらいらして、やるべきことが手につかなくなるのです。



 
痛いことでも、全部が大事なこと

 「修を離れぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行の緩くすべからざると教ふ」。
なにかをした時、そのとおりの事実というものがあります。

これは先ほどから申しておりますように、 その事実を人は思考で汚しています。

人間は思考によって追求すると、真実がわからなくなる。

 「直指の本證なるがゆえなるべし」、

パン、

この音は、この音のなかにしかない。

そういうのを直指といいます。

ほかに指さしてあたる場所はないですね。


だけども人間は愚かだから、どこかほかに真実があると思う。

今やっていることが本当だとはなかなか思えません。

それはそうなんですね。

自分の描いた思いのほうが自分に近いわけですから、自分の思いに当てはまらないことは、真実だと思いたくないわけです。
 

 日常的なことを例にしてお話ししますと、誰でもお腹はいつも正常に働いて、痛くないほうがいいと思っています。

どなたでもそう願っていると思うのですが、では痛いのを自分の意志でとめてみる。

でもね、ほんとうはそんなことはよくないですね。

人間のからだは、痛みが出てくるときには 必要があって痛むようにできています。

それなのに自分の意志で痛くないようになったらたいへんです。 
 
お腹の中が破れていても気がつきません。

自分の思いでは、痛くないほうがいいかもしれません が、この今の傷みを除いては今が成り立たないようにうまくできているんですね。

なんでも全部がありがたいこと、大事なことです。

自分の思考で色をつけ変えるより先にある全部が真実、大事なこと なのです。

それから手当ということが出てくるのです。




 毎日、毎回が驚きの生き方

h4zazendosk2 「初心の弁道、すなわち一分の本性を無為の地に得るなり」。

みなさんのなかに坐禅がはじめてという人はどのくらいおられますか。

はい、この方たちのこと、初心だと思いますか。

実は、初心というのは、ここにいる全員。

私も含めて初心なのです。

なぜかといいますと、きょうの坐禅は誰もやったことのない坐禅だからです。

人生で一度もやったことのない坐禅を、きょうみなさんはやった。

こういうことを初心といいます。

ところが何回も経験している人は、自分は初心ではないと思っています。  
 
でもそんなことはありません。一度もやったことがないんですから。
 

 私たちの人生はみなそうです。

これからやることは、一度も経験したことのないものばかり。

毎日がこれからはじめてやること。

なんとすばらしいことでしょう。

なんと輝かしいことでしょう か。

一度も見たことのない世界に出会うのです。

毎回、時々刻々と驚きばかりです。


ところが、ちょっと頭のかたい人は、「毎日、毎日同じだ」なんて思っている。

これは、思考回路で見ているか らですね。 
 
だから、どんどん老けていきます。

こころがどんどん老けて、なんの喜びも感動もなく なってしまいます。
 

 定年退職された方が趣味を何ももってなくて、寂しくぼーっと過ごしている。

ところが、趣味も何もなくても、人は毎日毎日、生まれてから見たこともないものばかりに、朝から晩までふれるのです。

だから、「あっ」「あっ」と驚きばかり。

それくらい新鮮な生きかたができるようになっているのです。
 

 そうしますと、おじいちゃん、おばあちゃんが孫と遊んだりしましても、おじいちゃん、おば あちゃんが、毎日毎回を新鮮に感じていればお孫さんも楽しい。

さきほど申しましたけど、自分の気持ちそのままが小さいお子さんには反映されるのです。

それが、何百回も経験したことだ、毎日同じだと思う人は、なにを見てもふれても感動がない。

そういうおじいちゃんやおばあちゃんが子どもと遊んでも、子どもは喜びませんね。
 

 「初心の弁道、すなはち一分の本証を無為の地にうるなり」
という、「一分いちぶん」というのは今ということです。

「今本性を無為の地に得る」となります。



 先ほどの控室に

「無為最も尊し」

と書いてありました。


どなたかが「何もしないということが尊いのですか」と聞かれましたが、これはね、パンという音を聞くときに、私たちは何かをしましたかということ。

特別に何かをしたわけじゃありませんよね。

それなのに、ちゃんと聞こえるようになっている。

こういうことを「無為」といいます。

人間の思考を離れた、本当の活動をしていることが 「無為」というのです。

「無為」というところに気が付いて、目を向けていくと、本当の修行ができるようになってくる。

これが「意根を断つ」ということになろうかと思います。


本日はありがとうございました。


  合掌


引用元 http://www.nakanojouganji.jp/backno/50inoue2.htm


▶事実には見解は一切つかない。事実は本当に一枚岩です。他に何もありません。

▶人の見解が本当にぶち切れてしまうということがない限り、本当の救いというものはないんです。

▶理性は、人を惑わす親玉です。理性を無視するんじゃないんですよ。

▶徹頭徹尾、死んでゆくことが大切なんです。人の見解というものは、絶体に自分を救う道ではないのです。

▶ものの存在も、人の存在も、すべてなくなってしまうという事実があるんです。

―井上義衍老師 
 



道元禅師は、当時生存確率の非常に低かった中国行きの船に乗って、
仏法を真に伝えている師を探しに行かれました。
いるかもいないかも分からないのに、命を賭けられたのです。


古人すら猶かくの如し、いわんや今人なんぞ弁ぜざる


現代の正師に参禅されんことを



 

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