坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

井上貫道老師に参禅を始めて、すぐに、自分はいない体験(自我消滅体験) をする人達


shikotaiken1井上貫道老師のある坐禅会の司会の方が、ある時このような発表をされました。


「最近、参禅始めた初心者の方に体験の出るのが多いです。


ある人は、自分の部屋に入った時、自分がいないことを体験されました。

ある人は、…………の時
ある人は、…………の時、

(このあたり体験の契機を記録したメモが見当たりませんでしたので、不明です たしか5名ほどだったと思います)
です。



この人達に共通しているのは、
話をちゃんと聞いていることです。
 
みんなよく坐禅をしています。

しかも皆さん、老師に参禅を始めて、皆半年以内、長い人でも1年以内です。


自分のないことを体験してから本当の修行が始まります。



古い人達,、古参の方々 [ 何年も何年も継続して坐禅会に通っている人 ] は、どうなんでしょう。
 
坐禅中に居眠りをしている人が多いです。
または、目をつぶって坐禅をしている。※

法界定印*の親指も離れている。。。

 

独参にも行かない。

これでは何年かかっても変わらないですね。」


以上のように話されました。


※[ 「事実を見届けるための坐禅ですから、目をつぶってはいけません」と貫道老師が常々言われています。

道元禅師も、『普勧坐禅儀ふかんざぜんぎ』に目を開くように強調されています ]

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* 法界定印 ほっかいじょういん   「ほうかい」ではありません
 眠ったり、気が抜けていると親指と親指が離れます  考え事をしていると卵型ではなくなっていびつな形になっています。
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あと5人ほど、参禅体験談があります。



以下は井上貫道老師のことばです。
 


「人の話聞きながら、頭のなかで色々比較したりするのは聞いているんじゃないんだね。
そんな聞き方したら、何十年聞いても無駄です。」




「では坐っている [ 坐禅している ]ときにどうやって過ごすか。

坐る時のあり方として、問題になるのは思量分別、

色々なことが思えるというか、出てくるというか、

あるいはこちらから(意図的に)考えるということがあります。



坐禅中はそういうものを、とにかく相手にしない。

出てくる思いに対して、自分の見解で識別しない。

いわゆる善し悪しを図らない。


これは良いこと、
これは悪いこと、
これは正しい、
これは間違っているというようなことをやらない、

ということです。


もう少し具体的に話をすれば、坐っていて色々なことが出てきたときに、
人間と言うものは、気に掛かることが結構あるものです。

ですから通常は、その気になっていることを解決しようと思って、
自分の頭の中で色々なことを始めます。


これを、とにかくやらないことですね。

だからどのようなことが出てきても、
思い出したものや考えたことで気にかかることがあっても、
それを相手にどうこうする、手を付けて過ごすということをしない。


また、その出てくるものに対して、出ないようにするようなことも一切しません。

こちらから造作をして、作り変えるようなことは一切しないで坐るのですね。


それが坐禅をする時の工夫と言われる修行のあり方です。」
―― 井上貫道老師

『井上貫道老師提唱録』(井上貫道著、2016年)




「飛行機のゴーッという音が聞こえたとき、はっと飛行機の音だと気づくのは、人間がそういう作用を働かせているからです。

そうじゃなく、単にゴーッのままにしておけばいいです。」



「ボーッとするのではないですよ。
意識はいつもクリアです。

そのために、坐禅中は、
目を開いている
舌を上顎につけている
法界定印の親指がくっついている
この3点セットを守ります」


[ 管理人より ]舌の位置:最近内科医や歯科医から、正しい舌の位置ということが盛んに言われるようになりました。

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以上は、歯科医の方々からの指摘です。
道元禅師は、800年前から『普勧坐禅儀』に言われていました。
坐禅中に限らず、健康な舌の位置は、舌が上顎骨にピッタリついていることです。
最初からこういう位置に舌が来ている人がいますが、そうでない場合は、意識的にこのような位置に持ってきます。あいうべ体操などが、内科医などによって提唱されています。
昔から、親が「口をぽかんと開けるな」と子供に注意したのは、医学的理由もあったのです。

舌を上顎つまり硬口蓋につけるようにすると、呼吸も口呼吸ではなくて、鼻呼吸となります。 
免疫力も向上するという臨床例が上がっているようです   以上管理人




「目を開けると言っても、一点を見つめるのではないですよ。
どこかに焦点を合わせるのではありません。」



「こうやってると、今、まわりでコオロギが鳴いてますね。

その中にポンと身を置いている感じ。


聞いている気配はありませんし、聞こえてくるという気配もありません。


ただ音だけ。
不思議に自分がないんですねえ。」





「多くの人が、坐禅中においてさえ、理想を求める境地を頭で探しています。

それは一見坐禅らしく見えますが、真実から外れています。」





「自分を中心にして物事を見てしまっているから自分が消えないんです。
もともと自分はないんです。

実は、考え方や見解も自分が作っているのではないんです。

自分を中心に据えて物事を見るのではなく、物事の方からやってくるんです。


それが五官に任せ切るということです。」






「事実について、考えを付けるか付けないかだけです。
考えをつけないままでいるのが、修行です。」






「観察しないこと、

眺めないこと、

[五感の]事実にいるだけ。

見る人がいなくなって事実だけになります。

そうやって座ってください。」 ――井上貫道老師




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【投稿後記】
以下はこのブログ管理人の発言です

このブログ記事のタイトルを、「自我消滅」というようにしていますが、最初から、自我はない というのが本当です。見出し的に使っているだけですので、ご了承下さい。

「話をちゃんと聞いている」ことはなかなか難しい人が多いようです。
「このままでいいんだ」というとんでもない誤解(微妙な誤解)をされている人も多いです。

そうか。「あるがまま」ということなんだと思っている人も多いです。(老師は一度も「あるがまま」と言われたことはありません)
「何をしていてもいいんだ」と思って、摂心中の休み時間になれば、私語ばかりしている人もいます。

ある人は、30年間も井上義衍老師に参禅したあと、
「老師は、いつもそれで話をごまかしている」と発言して、
老師が「パン」と手を打たれることの理解さえ出来ていなかったという話があります。
(30年前に、「ごまかしている」と発言すれば、そこから糸口があったのに)

他人事ではありません。


上に記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、同じ参禅者ですし、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人達がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューしていません。




 

[ 付録 ]  番外編1

以下は、以前の方々ですので、会下ではありません


東大卒で大悟した現代人たち

著書などで世に知られていてすでに遷化されている人3人だけのご紹介です

飯田トウ隠老師 医師・飯田氏



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飯田欓隠老師は、山口県の生まれ 旧姓片野だったが、飯田家の養子となる。

東京大学医学部出身で、東京大学附属病院医師であった。

その時代にコレラで人がつぎつぎと亡くなるのに無常を感じて、広島の大本山佛通寺(臨済宗)の香川寛量老師に参禅開始。


初めての7日間摂心(せっしん)で見性


仏通寺・寛量老師の印可証明を受けるも、満足せず、当代臨済宗随一とされた南天棒中原橙州老師(なかはらとうじゅう)に参禅する

南天棒老師は、当時臨済宗の老師(師家・師家分上)の悟りがあやしいと思って、『宗匠検定法』しゅうしょうけんていほう というのを考えて、各地の師家の点検を行おうとしたとされる(明治時代 臨済宗の公案体系を使う公案禅も江戸末期から始まった)

いつも南天の木から作った棒を携えていたため、南天棒と称される



医師飯田居士は開業医をしながら、師匠・南天棒老師に師事 ひそかに、曹洞宗の師家にも同時に参禅し、只管打坐を修していたとされる

その後、飯田居士は、自分ではまだと思っているのに、南天棒老師が「そろそろ印可証明をやってもよいと思っている」と第三者に話すのをたまたま聴いてしまい、老師に疑問を感じて見限り、老師のもとを辞して、公案禅を捨てて、只管打坐に専心

多治見の虎渓山永保寺で独摂心をし、大悟徹底して修行が終わる

※独攝心とは、一人でどこかに籠もって摂心をすること 
基本は7日間 通常は食事を摂り、夜は適度な睡眠を摂って行なう トイレも必要になるので、場所の選択も難しい
独摂心(どくぜっしん)は、一度は見性しているとかの力のある人でないとできないとされる  
(形だけの坐禅なら少しの根性だけでだれでもできるから)



この後、
遂翁和尚(すいおうおしょう)の法系の敬峰和尚に安芸(広島)で偶々出会い、即座に印可証明を受ける 56歳
※この敬峰老師は、阿波(あわ・徳島)の鬼文常と言われた懶翁文常老師の印可

居士の身で、各地で禅会に呼ばれる
東京大学卒業者であり、山口県の名家の出身でもあったので、皇族貴族などの参禅者も多かったという
また大学創始者、今の一流企業の創業者などの参禅者もいたとされる


参禅会の人々の懇願があり、のちに60歳で、福井県小浜の発心寺僧堂で曹洞宗の僧侶として出家




飯田トウ隠老師の提唱の前座として、井上貫道老師の師である井上義衍老師が提唱をされることがあった。その縁で、この飯田とう隠老師に、すでに大悟されていた井上義衍老師が大阪府高槻市古曽部町の少林窟道場で参禅された
井上義衍老師最後の参禅の師


この高槻市の少林窟道場は禅堂・方丈・衆寮などが今なお当時のまま現存していて、飯田老師の児孫である京都大学元教授の管理下にある






玉城康四郎博士 東京大学教授

たまきこうしろう

東大文学部卒のインド哲学の学者 故人

26歳の時に、専門道場の7日間摂心に僧侶とともに参加して、終了後の直後に、東大図書館で見性



のち、原田祖岳老師の系統の老師に師事して、大悟はされたが悟りを忘れることができなかったという。

明眼の宗師とは縁がなくそこまでだったと言われている(本人の述懐)
http://tardiozine.tumblr.com/post/882009230/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%95%99%E6%8E%88%E7%8E%89%E5%9F%8E%E5%BA%B7%E5%9B%9B%E9%83%8E%E5%8D%9A%E5%A3%AB
 
に詳細がある



「難しいのは悟りを開くことより、むしろそれを忘れることです。誰でもようやく達成した結果にしがみつくのは人情ですが、その間違いを指摘してくれる人は容易にはおりません。」―― 玉城康四郎





川上雪担老師 元・高校数学科教師


東京大学 理III (医学部) に入学したが、考える所あり、文系に転部 東大文学部卒業後、高校数学教師を経て、出家

当時、曹洞宗で一番厳しいとされた小浜の発心寺僧堂に掛搭するも、浜松の井上義衍老師の名声を聞いて、僧堂を飛び出して浜松龍泉寺に至って修行 ( 当時の発心寺僧堂師家は原田祖岳老師の次の原田雪水老師 )
当時、井上義衍老師が指導されていた龍泉寺は、常摂心と言って、常に摂心状態。

そこに天下の鬼叢林とされる小浜の發心寺専門僧堂を密かに抜け出て、やってくるもの多数 中には原田祖岳老師の印可証明を持つ修行僧、臨済宗の印可証明を持つ修行僧もいたと言われている

常摂心なので、一度も坐禅の終わりの鐘がならず、ずっと坐禅しっぱなしだったという。
臨済宗で長年修行してきた修行僧が、苦痛で逃げ出したということもあったらしい。

現代のような専門僧堂ではないので、一般からの供養体制もなく、食べ物にも不自由したが、少ない食べ物をみんなで分け合って修行に励んだという。


川上師は、頭脳明晰なるがゆえに苦労をしたと自分でも言われている。


龍泉寺を出て新潟東山寺に住職するも修行を続けてある時、決着がついたとされる。
文才豊かで、独特の家風がある。


「分かる人はすぐに分かる 頭の良さは関係がない」
ある時などは普通の女の子がやって来て、坐禅の仕方を伝えたらその日の午後には本当の坐禅ができるようになったという。

平成23年遷化(せんげ)された。


今は遷化されていて東大卒で悟られた方として、3人だけを挙げました。


 最高の知能を誇る物理学者が悟りを開いている人に徹底的に質問をした結果 もお読み下さい



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最高の頭脳を持つ 素粒子物理学者が 井上貫道老師にとことん質問をしたが、老師は、どこまでも答えることができた


(これまでの体験談以外に、あと、3~5名ほど投稿できる体験談があります。)

U氏は、ノーベル賞受賞者をたくさん輩出した超一流大学 K大学* の理学部物理学科出身で、今は大学の先生です。当時は、医学部ブームの来る以前のことで、一番「頭の良い」人は、医学部ではなくて、この大学の理学部物理学科に入学したようです。
物理学者のU氏が,「仏教の悟りなどというが、本当にそんなものがあるのだろうか?」と参禅を始めることになったそうです。

井上貫道老師に出会い、老師に徹底的に質問をした。
最高のIQで、質問攻めにしました。

しかし、井上貫道老師はすべて答えることができたそうです。

※ちなみに、貫道老師は、よく分からない時には、問い直したり、「これこれと言うことですか」と確認したり、「自分はそうは思わない」という時には、反論したり、質問したりすることを大変喜ばれます。
分かった顔をすることを嫌われます。


その物理学者のU氏いわく、


「普通は、徹底的に問い詰めるとだれでも底が見えるものです。

でも、井上貫道老師だけは底が見えなかった。

どんな突っ込みにも答えられた」そのように言われました。



その後、U氏は、地元の禅寺にそれこそ毎日毎日坐禅に通うようになり、しまいにはお寺の近くに家を買われました。



禅に出会ったその頃の大学での講義の要約が別のブログに掲載されています。





<ここから-->
 
●ニュートリノは光速より速いか。

相対性理論は光速が一定という前提で体系づけられているが、光速より速いものがあるという前提に立つことで説明しやすくなる別の世界も実はある。



●物だけを認める思考をつきつめていくと、人類は壁にぶち当たる。

人間は自ら改善できず、部分的に失敗をするまで目が覚めない。



●一般には「見られている対象物があり、見ている人がこっちにある」と思われている。

しかし実はそうではない。見られるものと見ている人は一つなのだ。

物理学で言えば、
 見る方:人の意識
 見られる物:素粒子~宇宙

宇宙の方が素粒子より大きいと通常は考えられがちだが、そう単純ではない。素粒子のように小さくなればなるほど、次元の数が増え、広がりも大きくなる。例えば、一個の電子は宇宙全体に広がっていたりする。



●洞窟の比喩(by プラトン)

洞窟の中、ロウソクの光で壁に映った影を実体だと勘違いしているが、実体は別のところにある。
ややもすると我々は実体を見ていないことが多い。



●シッタカブッダが馬を見る

馬の一部分ずつを見て想像でつなぎ合わせ、似ても似つかないものを馬だと思い込んでいる。



●誰か特定の人をイメージするとき、その人の一昨日の姿、昨日の姿、今日の姿を記憶でつなぎあわせ、それをその人だと思っているにすぎない。

その人と付き合っていると思い込んでいるが、実際にはその人の事実と付き合っていない。



●オンライゲーム等では、ゲームの舞台となる世界がひとつ存在し、各プレイヤーのPC画面には、それぞれのプレイヤーからその世界を見た映像が表示されていると思いこんでいる。

しかしそれは真実ではない。実際には各プレイヤーの画面それぞれだけが真実であり、それらを統一したひとつの世界なんてものはない。理解しにくい話だが、分かるかな? (モナドの概念)

我々の生きている世界だって、実は同じことでしょ。



●(老婆に見えたり若い娘に見えたりするだまし絵を見ながら)視点の違いによってこのように認識が変わる。



●素粒子も同じく、粒子の側面と波動の側面を持つ。同時に二つの側面を持っているのである。

例えば「シュレディンガーの猫」は、確率的に生きていると同時に死んでいるという状態である。同時に生と死との二つの側面を一つの状態で有していると考えられる。



graviton●量子力学のΨは波動関数であるが、これは粒子を表現する場合と波動を表現する場合の両方を持つ。観測した場合、すなわち見た場合には粒子となり、見ない場合には波動となる。

つまり、見るか見ないかによって素粒子の振る舞いが変わるのである。

見る側によって見られる側の振る舞いが変わるのだから、見られるモノと、見ているココロは、実は別のものではない。




●カントの主張
「時間と空間は自分の外に別に存在するのではなく、自分の中に存在する。」

これは非常に衝撃的であり、コペルニクス的転回であった。




●ハイデガーの主張
「周囲の対象物を見ているこちら側が自分だと思っているが、そうではない。こうやって見えている周囲の事実こそが自分なのだ。」

これも当時、衝撃的な主張だった。

彼は若いころ死にかけたことがあり、カトリックの修行を真剣にやったらしいが、そのせいで覚醒したのかもしれない。




●聖書には「I am that I am」
(アイアム・ザット・アイアム I am that which I am )
私は、私がそうであるところの物である)という言葉がある。




●人生はそっち側(周囲の対象物)にある。こっち側(自分)だと思っているが、そうではない。



●「りんごが存在します」と誰かが言ったとする。じゃあ、その「りんご」を出してごらん、と言うと、ちゃんとりんごは出せるだろう。でも、「存在する」ということを出してごらん、というと、これは出せない。「存在する」というのは概念にすぎない。

つまり「存在する」なんてものの実体は存在しないのである。



●「ある」という意識が対象を産む。




●素粒子を観測するということは、つまり自分自身を観測していることなのである。

<--ここまで>


  以上は、ブログ『浜松で禅修行』 http://ameblo.jp/hamamatsu-zen/entry-11107088475.html からの引用です。




U氏の言葉を借りれば、

「『頭が良い』ということは、この世界に限って言えば、少しも良いことではない」だったようです。

(井上貫道老師も、悟りの道ということでは、頭の良い人は苦労すると言われています)


そのせいか正師に出会うチャンスを得ながら、今年の春、ようやく見性された(悟られた)ようです [失礼な表現かもしれません]。 参禅始めて16年だそうです。
少し後輩で、U氏のように頭が良くなくて、老師のお話を理解できていなくて、U氏に質問することもあった年輩のTさんが、先に体験を得られたので、焦ることもあったそうです。

しかしながら、U氏、自己とは何か の探求心を持ち続けられた結果です。 



その体験以後、攝心(せっしん)の時に、近くの人にこんな事を言っておられたのが聞こえました。



物理学者Uさん: 「悟りとはどのようなことなのだろうか?(悟ったらどのような状態になるのだろうか?) と自分で想像して時間を浪費することだけはやめた方が良いですよ」




[ 投稿者後記 ]
あと、5名ほど体験談があります。


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* K大学や東京大学の人が禅をするのは珍しいことではありません。 また、理系の人が坐禅をするのは大変多いようです(現在の参禅者にもたくさんいらっしゃいます)。

Appleの創業者のスティーブ・ジョブズも曹洞宗の禅を一時期トライしたようです。
出家しようかという選択肢もあったようです。

彼は、「今日は何を着ようかと考える時間が勿体ない」と、いつも僧侶と同じ色の黒のタートルを着ていましたが、これも禅の影響です。
ちなみに、Macの方がWindowsよりはるかに優れています。しかも、シンプルにできています。
Windowsは、いわゆる2000年問題で(2000年が来た時にやり変えないといけなかった)騒ぎましたが、Macは西暦3000年より少し先までちゃんと準備ができていました。その点でも、Macの優秀性が分かります。
しかしながら、Windowsのシェアが大きいので、一般にはWindowsOSが普及しています。
決してMicrosoftが優秀なわけではありません。
しかし、この記事はWindowsで書いています。ありがとうございます。(^^ゞ


頭が良いということは、記憶力が良いとか計算が早いということだけではなくて、一つには概念を構築する力が優れているということがあるように思います。


U氏のことではありませんが、
悟りの体現者が、実物を提示されているのにもかかわらず、「それはそういうことか」と概念を形成してしまい、以後法話を聴くたびにたくさんの概念を形成します。そして、以前学習した既存の概念と比較したり、概念を修正したりして、さらに概念を精緻にしようとします。

もちろん、他の人より老師の話も記憶したり理解するのが速いので、人にこういうことだと代弁してあげることすらできるようになります。

しまいには、悟りとはこういうものではないかと近似値的概念ができたと喜びます。


そのような無駄な時間を使うので、悟りとはよりかけ離れてしまいます。
思考の世界、考え方の世界で、楽しんでいるだけになります。
気をつけなければいけないところです。


なので、頭の良い人は、世間では場合によっては少し高い評価を得るかもしれませんが、ここ仏道では、あまり役に立たず、悟りに至るのに苦労するということになります。



むしろ禅とか仏教とかの前提知識のまったくない方が、井上貫道老師のような正師に参じて、2回目とか、半年以内の参加で「自分がいない」体験をされるのも、そういう理由です。

今後も、初心者の人の禅体験を掲載します。みなさん参禅開始後、1年以内の方々です。
ちゃんと坐禅は正しく行じていらっしゃる方々です。




 

自己は消え、老師の声が聞こえるのみ――貫道老師坐禅会参加が2回目のある女性の体験



井上貫道老師のある坐禅会のことです。

午前中坐禅を3炷(ちゅう)、それから斎座(さいざ=昼食)、午後坐禅1炷、提唱、質疑応答という差定(さじょう=時間割)です。


老師の提唱後、お茶とお菓子をいただきながらの質疑応答で、
女性が発言されました。


「今日は、2回目の参加です。

前回、初めて参加した時に、司会の方が、提唱の聞き方として、
「メモを取らずにただ聞いてください※」と言われたので、
今日もそうしていました。

そしたら、老師の提唱中に、自分がなくなっていました。

自分がなく、ただ声だけが聞こえるのです。


なるほど、だから、メモを取らないほうが良いのかということが分かりました。」




※この坐禅会では、司会の方が最初にこう言われています。

「提唱の聞き方です。
ただ聞いてください。

普通の学習方法とは違います。 

zazenjosei2toblack_FotoSketcherメモも取りません。

メモを取るというのは、自分の気に入った言葉をメモするだけでしょう?
これは気にいる、これはそうでないと区別するのでしょう?


しかも、メモをしている間は、お話を聞いていませんし。


だから、

ただ聞いて下さい。


そのことがそのようにあるだけですから。」



井上貫道老師が坐禅の仕方として以下のように言われています。

 

「観察しないこと、

眺めないこと、

事実にいるだけ。

見る人がいなくなって事実だけになります。

そうやって座ってください。」 ――井上貫道老師


井上貫道老師による坐禅の仕方・坐禅の方法はこちら  
← クリックして下さい


 
上記の女性の方は、老師の提唱中でしたが、素直に参禅されていて、
まさに、聞く人がいなくなって、事実だけになられたのです。

*提唱 (ていしょう) とは、悟りの体験者が、実物そのものを見せること 
講義や解説ではない
自分のことを明らかにした仏道の人が、
事実を
各自の自分自身の様子( その場にいる参禅者自身の自分の様子 ) がどうなっているか
ということを直截に指し示すこと




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【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューしていません。

老師が提唱しているのではなくて、自分が提唱をしていたー一参禅者の体験




井上貫道老師のある坐禅会が終わって、会場片付けの時に、何人かの人が老師の周りに集まってきました。

その中の一人Wさんが言われました。

「実は、このところ坐禅をする時間がなくて、今日はガッツリ坐禅ができました。


300kandoroshiteishoatkobepen今日ですね、


老師が提唱しておられる時、


あれー、自分が提唱しているわー   ってなったんですよ。




……なんじゃらかんじゃら……



それから、老師が言われた人の話を聞いていないというお話、
わたしも、自分の子供の話を聞いていないということ、ズンと響きましたわー」

*************

井上貫道老師の提唱中に、提唱しているのが貫道老師ではなくて、自分が提唱している
ことに気づかれた体験でした。


Wさんは一般のお勤めの方です。
井上貫道老師に参禅始めて多分一年くらいでの出来事です。1年経っていないかもしれません。

「ちょっと気をつけて坐禅している人は、気づきが来ますね。 一旦気づきがあるとガタガタッと変わって行きますね。」―井上貫道老師




「…ほとんどの人が、

『私たちの生活しているのと違った別な教えが、諸仏方、悟りを開いた人たちにはあるんじゃないか。

だからそういう人たちの素晴らしいものを、できたら自分も味わってみたい』

そう思って間違えているのでしょう。

そもそもそれが間違えなのでしょう。

なんで今こうやっているのに、これで満足できないかを尋ねた方がいいのでしょう。

何が満足させていないのですか? 

それを本当に追求するためには、今まで使ってきた思量分別を一切使わずに、この事実にいて [居て]みることなんじゃないですか? 


それが、坐禅と言われる行なんじゃないですか?」 ―― 井上貫道老師




◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇    ◆    ◇



上記体験者の言葉で、子供の話を聴いていないという話というのは、

老師:
「親って、子供の話を聞きませんね。
子供の話を聞いたら、その話で出たものを買ってあげないといけないもんだと思いこんでいるものだから、
最初から、子供の話を聞かない。

子供の話を聞く ということと 子供の話で欲しがっているものを買ってあげないといけない ということは別なんですよ。

話を聞いても、買うこともあるし、買わないかもしれない。


子供だって、ちゃんと親の経済状況を分かっているから、
話を聞いてもらったら、あとは、我慢することだってできるんですよ。

それくらい子供は賢いですよ。」


と井上貫道老師がその日の提唱と質疑の時間に話されたことからです。



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【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューはしていません。

また名前を知っているのは、このWさん以外に2人くらいで他の体験者達の名前は知りません。
体験談を坐禅会中などに話されることがあっても、そもそもその人の顔を見ていないので、男女以外分かっていません。


上記Wさんのように、個人を知っている人であってもできるだけ個人を特定できないように余分な情報は書かないようにしています。使用した人名のアルファベットは、その人の本名とは全く関係がありません。ZからAまでを、日本人の姓にならないものは除外して使っていきますので、まずはYさん、次はWさん、次はUさん、Tさんという順番になります。



井上貫道老師に参禅を始めて1年で気がついたサラリーマン



 
これはある人Yさんの体験談です


わたし [このブログ投稿者] が、井上貫道老師の坐禅会に出た帰りのことでした。駅近くでYさんに出会って、多分初めてこの人に話しかけました。

前日の他所での貫道老師の坐禅会での一参禅者の人がちょっとした見解を話されたので、そのことについて、前夜も出席されていたYさんはどう思われますかということを尋ねました。


Yさんは、坐禅に真剣に取り組んでおられること、かならず井上貫道老師の独参の列に並んでおられること、経行(きんひん)(歩行禅)の姿が美しいことで、以前からはその存在には気づいていました。

僧侶ではなくて、企業に勤めていた一般人の方です。 


その時のわたしの質問に対してどう答えられたかは覚えていませんが、続いてこう言われたことをハッキリと覚えています。



「こういう会話って、この坐禅会の人ってあまりしないんですね。

実は、わたしは貫道老師に参禅始めてちょうど1年くらいの時、見性したんです。
[ 当時は、この「見性」という用語をYさんが使われたかどうか、記憶が定かではありません ]


攝心の時に朝の坐禅で、坐禅終了の鐘が鳴った時に体験がありました。
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貫道老師に出会ってから、言われたとおりに修行していただけです。

修行ってとても簡単なことだなと思いました。

 


そうそう、
そのあとの体操の時に、雨だったから本堂で体操があったのですが、インストラクターの人に向かうと、インストラクターの人以外誰もいないんですよ。
とても面白かったですよ。※




でも、そういう体験があるとどうしてもつかんじゃうんですね。」





投稿者「その体験のことを老師には独参で言われたのですか?」


Yさん「はい。 老師にも、その体験の内容ではないぞ、掴んではいけないよと言われたのですが、つかんじゃいました。」
(実際には老師とYさんとの間にどのようなやり取りがあったのかは不明ですのでご注意下さい)




Yさんの体験について、その時はもっと質問したいことがあったというか、体験の時は、どんな感じだったかもう少し詳しく知りたかったのですが、修行上の先輩であるMさんの所に行く約束があるということで時間切れになりました。

その後もYさんと話す機会はありましたが、人の体験については、興味がなくなってしまっていましたので、彼の上記の体験については、それ以上尋ねたりすることはありませんでした。


      *            *           *            *           *            *           *            *

 

Yさんは貫道老師に参禅を始めて1年で気づきを得られたのです。
その前に一度だけ、宗門の専門僧堂で修行僧に混じって、攝心をしたことがあったと話されていました。

体験を掴んでしまわれたので、終わりとはならず、それ以後も坐禅修行と参師聞法を続けられました。


ずっと、あとから分かったことですが、その人は、老師の指導される正しい坐禅が本当にすぐにできるようになったそうです。



「真っ正直な人って、修行が速く進みますね」 ―― 井上貫道老師


「一ヶ月に一度坐禅会にやって来て、そこで修行を思い出すのでしょう。 普段は何もやっていないんだね。
それでは、絶対に [修行成就は] 無理ですよ。
何年かけても無理。

世の中のことでもそうでしょう。

実践したら、一ヶ月もあれば何かあるはずだから、どうなったか教えてください。
やっていないと疑問も何も出てこないでしょう?」

―― 井上貫道老師
[ 井上貫道老師坐禅会では、必ず、質疑応答の時間があります ]





※[攝心 (せっしん) というのは、在家の人も、仕事は休み、人間関係を絶ち、ニュースやTVやスマホを見ずに、日記もつけず、すべてをお預けにして、道場に泊まり込んで行なう合宿型の坐禅修行期間のことです。
朝から寝るときまで坐禅を中心に一心不乱に修行に専念します。この期間は、心おきなく自分の様子に親しくいることができる大変貴重な時間です。

師家(老師)を指導者として、坐禅、提唱(ていしょう)、独参(個人指導)で構成されています。 食事は1日3度ありますが、食事を摂るのも、トイレも、昼の休憩中も、形の異なる坐禅修行になります。
提唱の講本以外、文章を読み書きするのも禁止です。 


よくある荒行のように、食事も睡眠も制限されることはありませんし、1日11炷と言っても、人と一緒にするので、よほどでなければリタイアするような厳しさはないので、ついつい、甘く見て真正面から取り組まずに、ただ外見上は坐禅の形を守るだけで数日を過ごす人もいないわけではありません。

あくまでも内面でどのように自分の今の様子と親しくいるかが問われますので、摂心のあとは、人によって大きな差が生まれてしまう行でもあります。


道元禅師や井上義衍老師は道場で、一夏90日間の安居期間中は、隣で坐禅している人の顔を見たことがなかったと言われています。 




この体験談当時は、攝心の暁天2炷の坐禅のあと、朝課(朝のお経)があって、その後、戸外で体操をしていました。その時は雨降りだったので、本堂でしていたようです]




【投稿後記】
ここに記載した・これから掲載する参禅者体験は、1年を経過しているものを選んで投稿しています。
投稿者は、インタビュアーやレポーターではありませんので、その後、その人がどのように修行されているかは知りませんし、その後の修行をインタビューはしていません。


上記Yさんのように、個人を知っている人であってもできるだけ個人を特定できないように余分な情報は書かないようにしています。使用した人名のアルファベットは、その人の本名とは全く関係がありません。ZからAまでを、日本人の姓にならないものは除外して使っていきますので、まずはYさん、次はWさん、次はUさん、Tさんという順番になります。

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