坐禅の仕方と悟り,見性,身心脱落:井上貫道老師の庵 まとめブログ

Dharma Talks of an Enlightened Japanese Zen Master Kando Inoue Roshi 井上貫道老師が、悟りを体現された経験から坐禅の方法や仏道について語られたものを掲載しています web上に散見される井上貫道老師のことばも引用掲載し、まとめブログとしました ( これは参禅者によるブログであり、公式サイトではありません ) このブログが正師への参禅のきっかけになりますように

禅 事実は人を騙さない、苦しめない~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より⑥ 


うち[井上貫道老師の寺院・少林寺]の座禅会でもこの前、こんな事があった、

おじいちゃん、人は生まれたら必ず死ぬのになんで働くの?って、
小学校一年生の子がおじいちゃんに夏休み聞いたって話。


で、お前はいつからそんな事を思うようになった?って聞いたら、

五才の時に自分でそういう事を思ってるって、
小学校一年生の子が答えた。


皆さん、そういう質問されたらどうしますか?

人は、生まれたら死ぬ、間違いなく死ぬのにどうして毎日あくせく働いてるの?

何のために生きている?

生きるってどういう事かって事でしょう。


そういう意味でしょう。

そういう事、一年生で聞く力があるんですよ。


もしそれをちゃーんと聞いて育てられたらすごいな。

こちらに力がなければその子供を育てる事はできないね。

真面目にそのこが言ってる事、受け入れられないね。



それ一例ですよ。

そういうような事、日常茶飯に行われているわけでしょ。

大人の方はなんか子供より偉いと思っているんだよね。

そんな事はないって。


それ位大人は傲慢なんです。


だから成長しないじゃないですか。大人になると。

ある程度までいくと成長しない。

あとはなんだか突っぱねるだけ。

で、もっと突っぱねておもしろくなくなると、
嫌な顔してもう口も聞かないような人生になる。
自分で。



それで隔離されていく、
どんどん社会から。
一軒の家から。

それでこっそり死んでいく。

亡くなる頃には誰も見向きもしない。

そういうふうな人生歩んでいる人たくさんいますよ。 



だから、今を勉強して欲しいんですよ。 

本当に簡単な事ですよ。 


自分を見極める。


向かいさえすれば必ず見えるんだからね。 


いつでも。そんなに上手くで来ているんですよ。

空っぽのような頭でも、向かいさえすれば見える。 


(老師、手を握る)


こうやって握りさえすれば、すぐわかる、
握った事が。

重さでも温かさでも。


実物ってそれ位膨大な思量、内容を持っているんですね。


研究して蓄えるよりはもっとすごい内容を持っているんです。

事実は。

もっと気楽に生きたらいいじゃないですか。



初めて会う人にこうやって会ったって、
何にも苦労しないじゃないですか。

知っておかなきゃ、会って話するのに困る事ありますか?

なにか。

そんな事ないでしょう。


なんでいろんな事探るの?

粗末にならないようにするっていうんだろうけども、
粗末にするような気持ち何で起こるの?

それは、あの人は偉い人とか偉くない人って事自分で見て知るから、 
そういうふうなつまらない事が起きるんでしょう


それがなければ必ず丁寧に触れるでしょう。
そういうもんでしょう。

持ち物がなければ必ずどんな人にだって素直にその通りに触れるようにできているんじゃないですか?

ところが自分の中で、いろんな事知る事によって逆に立派な人だったらこういうふうにするけども、
ちょっとどうでもいい人だったらまあこれくらいでいいかなって
そういう事をするつまらないものでもあるね。

知った為に。


レストラン行ったってそうでしょう。

あー、なんだ、百円のものかって。

そういう扱いするんじゃないですか?

知りもしないのに、なんかすごいシェフが作った千円位の料理だって言われると
じゃあしっかり味わって食べなきゃ。 

そうやって、そんな味わい方をするから、
本当の味を味わう事できないんじゃないですか?

何もついてないで、どっちもやったらちゃんと味わえるんじゃないですか?

それが私達の本義じゃないですか?

皆、そういうレッテルに騙されているんじゃないですか、
人がつけた、あるいは自分がつけた。

そこまで一回自分を剥ぎ取って見てください。 


私は釈迦って人は、本当に六年、
菩提樹の下で来る日も来る日も座ってたって事を読んで、 
そういう事を思う。


六年の間、何をしてたんだろう。


本を読むわけでもない、
人に話を聞くわけでもない、
こうやって座って、
寝てるわけじゃない。

目を開けてこうやって、



ひたすらこの真実に目を向けて、
それが自分の真実に触れてる時どうなってるか、
極め尽くしたんだと思いますよ。



(カチッ)
 

向こうで音がしてこっちで聞こえるなんて時間はない。

ないですよ。



(カチッ)

いきなりカチッと音がして終りです。


聞こえたとも、聞いたとも、なんともそんな事はないんだけども
 

(カチッ)


カチッってそうなるね。


上手く出来てますね。
 

それまではやっぱり普通に勉強していれば、
聞くから聞こえるんだとか、
そんな事いうじゃないですか。


じゃあ聞かないって言って、
私は絶対そんな事聞かないって言って、
聞かないようにしてて、


(カチッ)


こんな事したら、どうなるか

いくら頑張っても聞こえちゃうな。


(カチッ)

こういう事勉強するわけです、

考え方じゃないって事を、



事実というのは考え方を遥かに超えて、人を騙さない、苦しめない、

しかも、どこにもそれが体験したにもかかわらず、いきなりそれで終わってしまう。


蓄えてなくても、

(カチッ)

聞くのに何にも困らない。

さっき聞いた聞き方を蓄えてなくても、何にも困らない。



(カチッ)

音がしたらちゃんと聞こえる。



練習しなくてもいいようにできているって事ですね。

練習して初めて聞こえるって事ない。

人間の本質だから子供が成長するんでしょう。すごい勢いで。
 
大人は顔負けって言っていいでしょう。
 

大人がとっても敵わないくらい。
 

普段は大人が子供を育てるとき、大人は知らないから、子供の良さを全部壊していく、
 

力関係でやっぱり大人の方が力があるからぐっと抑えつけられる、

何にもできないからしょうがない、その子供は言われるままにやる。



言葉でもそう、ばばばばって言われれば、返す言葉もない、子供の頭では、

だからしょうがない、そうやっているけども、

ものすごい理不尽な事だから体力がついて能力が学校出る位になったらばんばん返ってきますよ。



その頃になると、急に何でうちの子はおかしくなった?って、
反抗期だ、恐ろしい
とかって言うけど、そうじゃない。


そんなの、前から予兆はあるんだよ。

知らないのは本人、大人達だけです。


自分がそういう事やってきた事知らないから。

正しいと思ってそれをやってきた、
だけど一番正しい事全部、ないがしろにして育ててきている事、 
子供に対して耐えられない事なんです、


せっかくの伸びる力、全部むしりとってきたんだもの。



そういうのは現代社会で著しく今、問われているんじゃないですか?



いろんなところで研究会して、文部省とかあーいうのでも、学校の先生も困ってる、


どうやったら、

子供はそんなに愚かじゃないって、触れてごらん、地域の子供でも。

どうしようもない子供なんか一人もいないんだよ。


そこまでなるのには理由があるんです。



もうほとんどの人が承知のようにその身の回り、一番近い環境にいる人達が影響してるって事、みんな知ってますよ。



あとざっくばらんにいろいろ話してください。




引用元:(ブログ作成者の許可をえています)

禅 本物ちゃんとわかるようにできている~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より⑤ 
④の続きです。


本物
ちゃんとわかるようにできている 

本物を見るのに、自分の余分な考え方を入れたらわからなくなりますよ。
本物は人に苦労かけずにちゃんとわかるようにできている

この中にお茶をいっぱい入れてさ、
こうやって飲むと、本物だから、必ずちゃんと味がします。
本物だから。

考えなくてもちゃんとわかる。

本物って、そんなに簡単なんです。

ちゃんとわかるようにできている。全部。


さっきいろんな野山の雑草や花や、見てきた。蝉や赤とんぼや、見てきた。

みな、今日実物に触れた。ちゃんとわかるでしょう?

曖昧だった人一人もいないでしょう?物の方は。

だけども理解の方になるとわからないでしょう?


これ何という名前だとか・

それは考え方の上だから。


考え方の方は知識がないとわかるわけがないでしょう。




だけど実物はそこにあるから、知識がなくてもわかりますよ。

どんな形をしているのか、どんな色をしているのか、色の名前を知らなくても、 
その通り見えます。

実物って、それだけ私達にすごい事をさせているんだけど、 
自分の実物、こんなに身近にある実物なんだけども、この実物を見極めた事がないから、

(パシッ 老師が机をたたく)

こんな事ひとつやっても、毎日聞いているんだけども、
どういう風に聞こえて、いつその音がどこですっかりなくなっているか
なんて事知らないじゃん。


だから朝、あんた何グズグズしているの?って、言われたのが、夜になってまで響くように思っている。

そんな事はないでしょうがこれ。 



(パシッ 老師が机をたたく)

それは音じゃないんだよ。
朝グズグズしてって、言われたのが夜わかるのは音じゃない。

その時しゃべってた声じゃない。

思い起こした働きなんです。全部。

実物じゃない、
そういう事皆さん、知るべきでしょう。


騙されないって事でしょう。 

本物と本物でないのを見分けできたら騙されないでしょう。

皆さんは実物と偽物を見分けつかないから騙されるわけでしょう。 


朝グズグズしててって言われて、夜になっても、こいつ、うるさい事言ってってグズグズ言う人は騙されている人でしょう。実物は言っ

た時しか、

(パシッ 老師が机をたたく)

音が出た時しか聞こえないようにできているのでしょう。

これが実物でしょう。 


(パシッ 老師が机をたたく)

やってみたらわかるでしょう。



(パシッ 老師が机をたたく)


もうどこにも聞こえてないでしょう。

だから問題にしなくて済むでしょう。


なんで、ここでいろんな言葉を聞いてると、いちいち自分を 不愉快にさせるのですか?



本当はいちばんやってみたい事は

まっさらで余分な考え方がついてないときの動きが、 

人がどういうふうな動きをしてるかって事を知った上でやらないと

人を縛る事になりますね、みな。



その代表が宗教といわれるジャンルです。

宗教ってものは非常に人を苦しめている。

例えば、人は生まれながらにして原罪というものを持っている、

罪を持っている、とかいうような事を誰が教えたか知りませんが 

そういう事を言って、だからそれを取り除くのが私達の教えだといって、

さあ来なさい、さあ来なさいと言って取り除くような話をする。

最初にそんなものはついてないのが本当なんですよ。



最初に何もついてなかったんです。だから優しい目で見れるんですよ。

ものを見る時に良し悪しを持って見てないから。

自分の眼(まなこ)が。



私達の眼ってそうじゃないですか?

初めは良いとか悪いとかっていうような考え方で見てない。

ただものに向かうとその通りに見えるように出来ている。

それだから優しくできるんでしょう。腹立たないです。見ても。 


もうちょっと大きくなっていろんな考え方が見たものに対して起きるようになると 

自分の思う通りになってないというふうな感覚があるから、そうすると腹が立ってるだけ。


こっちくる前に

ある修行道場にいた方が女性だけども、手紙をよこして、話を聞いてくれますか? 

っていう手紙だったから、どうぞって。

そしたら私が耳を傾けて聞いたところでは、(中略)

どんな事を修行してきたんだろうって思うぐらい、

なんでこんな事が修行だって思ってやってるのかなって思うね、やる方も。


で、お寺にいけば、トップの方に会いに行っても女性だからと行って、女性は来ちゃいけないって。

今の世の中ですよ、今の世の中で、男性が、女性がって、ここから入っちゃいけない部屋なんかないよね。

現代ですよ。
びっくりしちゃう。


じゃあ病院行ってあなたは女性だから診ない、なんてそんなとこないでしょ。

死ぬか生きるかって時に。

まあそういう事を話しておられて、あまり好感が持てなかった といっておりましたけど。 



私は基本的には仏教っていうのはこういう事をしてるって言って話をしておきました。

もう本当勘違いしてるんだね。

いわゆるノウハウを勉強してくるんですね。


鐘をどうやって鳴らすとか、
お経はどうやって読むとか、
儀式の時どんな事をするのかとか。

そんな事一生懸命勉強してる。



それも必要だっていえば必要だけど、人を救う上にほとんど役に立たない。

だってここにおられる方は別に家に帰って、どういうふうにお祀りの仕方をするとか、専門に別になくたって何にも困らないわけでしょ

。 



本当に必要なのは、自分がどうあったらいいかって事が問われているだけで、 
今の職業のままで毎日生活している時、どうやったら本当にいいかって事が問われている。

それを基本的にきちっと伝えていくっていうのが、修行道場の一番根幹でなければならないと思う。


だけど、そういう事、ほとんど欠落している、
あんた、お経下手だ、もっとじょうずになれとか、
お拝の仕方が悪いとか、
着物の着方がどうだとか、
こういう時に挨拶の仕方は、まあやらないよりはいいですよ。

できる方がいいのだけども、

それよりも基本は、本当にこれをいますぐやってもらいたい、

これは、何故必要かっていうと、この世に生まれた以上、自分の事は自分でやるしかないんだよ。 



自分の事を放っておいて生きられる人はないじゃないですか。 


一番身近な事でどうしても放っておかれないものは自分自身をよく知るって事ではないですか? 



健康面だってそうじゃないですか、
他人に任せておけないじゃないですか、これ、

自分がどうなってるか一番自分がよく知ってるじゃないですか、

いつ食べたの?
って聞いたって、お医者さんがその人に聞いたって、
答えなかったら推測するしかないじゃないですか。

だから本人は一番よく知ってますよ。

いつ食べた、何を食べた、どこで食べた、いつ頃からどこが痛くなったとか、
だけども、自分の事なのに、本当に無責任に生きているよね。

無責任に生きているんですよ。

人と相談事があってこうやって触れた時に、
それを聞いて、
自分の中で聞いた時に、 
(老師、体を指して)
どういうふうにこれがなっているのか。

まず聞いた時にどうなるかって。

聞いたら聞いた通りに入ってくるっていう事でしょう。

その時に余分な事しちゃダメだって事を言っておきたい。 


聞く時には何もつけずにそのままいれる。 



買い物行って自分で勝手に値段変えちゃまずいでしょ。

千円と書いてあって、五百円でいいやって、そんなふうに買ってきたら怒られるでしょ。

一応、千円とついていたら千円で買って、
その後、もしもう少しまけてくれないかねって相談はあってもいいかもしれない、
そしたら、じゃあまけるかたくさん買ってくれたからっていうような事はあるかもしれない。 



一番最初はその通りにいれる事ですよ。 


それを自分でめちゃくちゃやったら犯罪ですよ。


だから皆さん、こうやって聞いたり、見たりいろんな事を 
(御自分の体を指す)
これがしてますよ、

そういう時にそうやって犯罪を冒してはダメ。

それが間違いの元なんだもの。


正しくものを入れないって事は。

正しくものをいれないから、次に考える時に、最初が間違ってたものの上に考えるから 

正しい答えを引き出せないじゃないですか。

仏道修行・坐禅修行の根本 自分を見極める時は思考を使わない  
~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より④ 

人は如何に自分の思いの中にいて、事実(=真理)を知らないか


ここから法話:
 kandoroshiatshorinji
皆さんどんな勉強普段しているんですか?
 
自分の事みんな放っぽっていませんか?

 
自分の事ほとんど見てない。
 

(老師、机をたたく)
こうやって座ってて隣で音がする。

(パシッ 老師が机をたたく)
 
音ってこうなっているんですよね。
わかりますか?こういう風になってるって。


(パシッ)
聞いてますか?皆さん、今、どうなってますか?
 
難しい?
 
だって聞こえてるって事は難しくないでしょー?


探す用も、尋ねる用もないでしょ?


隣の人に聞かなくても自分の意見を言って下さい。
 
誰かに相談して答える事は用がない、
 
あのー、これはどんな答えも恥ずかしい事はないですよ。



参加者 「扇子を叩いて何やってるんだろう」

それは思う事でしょ?はっきり申しますけど。
 
何やっているんだろうって思う事を私は聞いてない
どういう風に聞こえるか?って聞いているんです。

 
何をやっているんだろう?っていうのは思いです。
 
聞こえた事に対する思いです。


参加者 「うるさい、」

うるさいのもそうです。うるさいのも思いです。

 
だからこういう意見が出るから勉強になるんです。
 
ほとんどそう思っているんですよ、みんな。

 
あの、こうやってどういう風に聞こえますかって聞いて、何してるんだろうって思うって、
そういう風には聞こえてないんです。
 
それは聞こえてる事ではない。
 
思ってる事であって聞こえてる事はそういう事ではない。
 
それくらい、自分のあり様というのを見ていない。



こうやって音がしているものに対して自分がどうなってるか。
 
この位の音ならまだいいですよ。

 
人間のしゃべっている音声も音なんだけど、人間のしゃべっている音声に対して
もっと皆さん方今言われるように、それは何だ?って、必ず思うんですよ。
 
それはしゃべっている事の中の意味合いを理解しようと思って探る、
聞こえてる事とは違う、
そういうのを皆さんは聞いてると思ってるんですねー。
 
 
だからもう一回基本的な勉強をし直す必要がある。

 

そういう事を釈迦って人はやったんです。
こうやって6年も。明けても暮れても。こうやってどうなってるか勉強した人です。座って、


これは事実に学んだんです。

考え方でなくて、
 

どうなってるんでしょうね?
子供だってわかる話ですよ。
何で大人の人が難しいのかしら?
いいですか?


(老師、扇子をたたくふりしただけ)
聞こえた人誰もいないね。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
こうやってやると聞こえるでしょ?


じゃあ今はどうですか?
(老師、扇子をたたくふりしただけ)
 
聞こえて、ない、でしょ?
 
そういう事なんですよ。


それが大事なんです。
いつなくなるんでしょう?
いつ聞こえなくなってるでしょう?
 
皆さん、自分の耳で聞いてるでしょ?
 
だったら音がしたのならわかるかもしれない。聞こえなくなったのはいつからですか?

今、
こういう事がはっきりしないってことは、いかに自分を見極めてないかって事です。
 
これだけで勉強するんですよ。


考えると難しくなるんですよ。
 
皆さんの少々の頭じゃわからん。
 
考えたら難しくなる。
 
だけど、事実はちゃんとこの中にある。答えは。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
音がして音を聞いて、どうなったかっていった時に、この中に答えはあるじゃん。
 
今、音がした、ところにあるから、考えなくたっていいじゃない。


(パシッ 老師が机をたたく)
これで勉強すれば。
 
その他のところに思いを巡らして、あれはどうか、、、全然当て外れでしょ。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
これどうなってますか?ったら、ここで勉強するでしょ。
 
必ずだから、今、 勉強するでしょ。
 
今の事をね。
 
それだけなんです。


 
修行って、それだけ。
 
これがわかったら、卒業ですね。


参加者「扇子が机に触れた時に音がするって、いうことですか?」

まあ現象的にはそうですね。

 
じゃあもうちょっと、机に扇子が当たった時に、どこで聞くんだろう?
 
どこで聞いているんだろう?
 
どこで音がしている?っていうと、耳で聞く、と本当にそう答えが返ってくるんですねー。


(パシッ 老師が机をたたく)
 
耳で聞こえる?
 
え?耳で聞こえる人いる?
 
もっと丁寧にやったらカチっというだけでしょ?
 
違いますか?正直に。
 
カチっというだけでしょ?
 
それ以外何もないでしょう?
 
どうですか?
 
カチっ、それだけじゃないですか?
 
カチっという事が聞いている事でしょ?
 
その時に、あっちで音がした、こっちで聞いたっていう事はないでしょう?
 
いきなり、カチっでしょう?


カチっ
 
音がしたから聞こえたって、
そんな事あるかしら?
 
こういう事ですよ、勉強って。
 
今まで先輩がいろんな事を言って遺しているから、そういうものを聞いたりして
或いは読んだりして理解しているだけであって、

この事実に自分が触れて本当にどうなっているかを確かめた事ないんじゃないですか? 


他人の意見で皆、終わっているのではないですか?
 
耳で音を聞くとか、向こうで音がするとか、
 
こっちで聞こえるとか、そういうみな、理由だけではないですか。
 
本当に実物でこうやって今音がした時に自分のあり様って、どうなってるか?


(ここで参加者の携帯が鳴る)
 

いいですよ、あーいうのだって皆勉強になるんですよ。
 

いきなりでしょうが、
 
いきなり、音があるんでしょう。
 
いきなり、音がある時に、人はうるさいとか、邪魔だとか、一切やってないでしょう?
 
音がしてるだけで済んでませんか?

 
それが私達の救われている世界なんです。

 
知らないから、すぐ音がした後に、自分の考え方を持ってきて、
 
なんでこんな時に音を出してって、たぶん思った人いると思う。
 
そうすると思う人もいれば

人がそう思うんじゃないかって思う方もいて、
 
お互いにまずい事をしちゃったなって、思って、
 
そこで苦しむ種を自分で作ってしまってるんです。
 
だけど、この耳はですよ、その通りに音がするだけで、どちらにも傷をつけない。
 
どちらも責めません。
 

今ご覧の通り音がしてないから言う必要がない、何も。

 
言う必要がないんだけども、さっきあーいう事したんじゃないかって、つつく人は中にいるの。

ないものを何故つつくの?
 
子供育てる時、さっきやった事があったとしても、
 
今やってないものに対してそれは何だ?って事はないでしょう?

 
じゃあそれと同じように、音がし終わったのに、うるさい、だとか邪魔だとかっていう事は
甚だ心外な事をやってませんか。
 
どこをつつくんですか?
 
音がしてないのに、うるさい、って、どこをつつくんですか?
 
ありもしない事をそうやってあたかもあるようにしてつついたらいじめじゃないですか?
 
いじめ。虐待じゃないですか?



参加者
「そういう場合、どうしても、老師が扇子で机を叩いてるって、考えちゃうんです。
誰かさんの携帯がさっき鳴ってたって、すぐ考えちゃう。」



[老 師]だから、もう一回申し上げますが、

見極めるって時は思考を使わない。

 

参加者
「だからいかに自分を見極めてないかって事で、
いかに自分がわからないかっていうのがわかった。自分を見てない。」



[老 師]そうです、いつも考え方で見ている、



参加者
「どうしても、ここで(頭を指して)考えちゃうんですね。
 あー、何さんの携帯が鳴ってるな。
 先生、こんな事やってるな。それだけです、考えちゃう。」


[老 師]
それは、いかにも他人事なんです。
 
だけど、本当は自分が今生きているあり様そのものなのに、
 
そういう風に自分が他人事のように見ているって事が二つ目の、大きな誤りでしょう。



誰が聞いたんでもないですよ。
 
自分が聞いたからそういう事が起きた。
 
自分が見たからそういう事が起きたのであって、
 
私のやってる事でないし、あちらのやってる事でないんです。

 
でも人間って、そういう風にしか今迄見てこないんです。
100パーセントたぶんそうですね。


そういう中に釈迦って人が生まれたんです。
 
だからそういう勉強しか、おそらく当時してないですね。


そこから抜け出したんですよ。


初めて、そういう人間の考え方を外してみた時にこうやってやると
 
(老師、扇子かざす)
 
その通りに見えるっていう事は、私の事ではないですね。


見えてるって事は皆、一人一人自分の今の生きている様子でしょ?


生活している内容でしょう?


これを見ているって事は、一人一人がこれを見ているって事は、

自分の今生きている内容でしょう?

そういう事は理解できますよね?



でもまだ向こうの人が言っている事って思っているのかしら?
 
だから思う事と自分が目でやってる事は違うじゃないですか?
 

自分の目は、思う事じゃないから、本当に自分の目でこの通り見てる動きしかないでしょう?
 
だって他の人の目で見れないんですよ。


こういう事、必ず自分の目で見てこれが見えるんですよ。


これ、見えると、あーあっちで扇子開いてるからそういう風に見えたっていう
考え方や思いをここに付けるじゃないですか。


じゃ、考え方や思いを外したら、これ、見えなくなるかっていうと、
どうですか? 


見えなくならないって事は、考え方や思いじゃないって事でしょ?


もし考え方や思いだったら、考え方や思いを外したら、たちどころに見えなくなりますよ。



だけど不思議に人間のあーいう風に見えるとかあーいう風な事やってるとか
全部外してもこの確かさは絶対なくならない。


それは考え方じゃないからです。


(老師扇子を開く。)
 
こうやってやると必ずこうなる。
 
(老師扇子を開く。)
 

どんな事を思ってても皆さんが思っている事とは関係なくこうやってやるとこうなる、
 
さっきまで開いていたのにって、いくら思ったって、ここしかない。
 

それくらい思い方と事実は違うんです。いいですか?

坐禅 只管打坐はシンプルー座禅中に目を開くことの意義


禅 座禅後の指導 目を開けること ~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より③ 
今回の③は約17分です。


椅子座禅30分終わって、そのあとの井上貫道老師のお話です。


  
やってる事はそんなに難しい事は何もないと思うんですよね。
 
 
だけどー、先ず第一に眠いねー。
 
ほとんどの人が目を瞑(つぶ)っちゃうんですよね。
 
あのう、時々回ってみましたけども、触るとふっと目を開けるところを見ると、
目を瞑ってるって事でしょう。
 

こんな事がなかなか目を開けたままじっとしていられないんですよね。
耳はですね、耳はご承知のようにこのままで開きっ放しですから
耳はふさがるって事はほとんどないんですよね。
目は自分の力で開けないと瞑ってしまう。

目は塞がったらものが見えなくなる。

まず皆さんに勉強して欲しい事ですね。

目を塞いだら見えなくなる。


ところがこうひとりずつたぶんあたって聞いてみると、
目を閉じてもいろんなものが見えるんです。
 
そういうたぶん答えになるのですね。
 
それは厳密に言って絶対見えているんじゃない。
 
普通見えるというのはですね、自分の外側にあるものを見れるのを見るっていうんですね、
自分の中にあるものを指して見るとはあまり言いません。
 
同じ見るのでもそれは心の中を見るとかっていう風になればそういう事があるけど、
眼(まなこ)がものを見る時にはそういう事はありませんね。


だから目を閉じたら見えなくなるから楽になるのでしょう。
 
布団に入って目を閉じてもですね、いろんなものが走馬灯のように
浮かぶって人もいるでしょう。
 
寝られないよ。気になって。
 
だけど、本来は目を閉じると見えなくなるから寝れるんです。
 
それが証拠に自分の目の前にあるものを目を閉じて見える人いますか?
 
目の前にいろんなものがある、
目を閉じたら見えなくなるでしょう。


目を開けてください。
開けるとちゃんとわかるようになっているでしょう。


じゃあ日常生活もこのように目を開けていさえすれば
目の前の物事ははっきり見えるはずなんです。
それが己を見極めるって事ですよね。
 
にも関わらず、皆さん、目を開けてものを見た時に、
よくわからんっていう人たくさんいるんですよね。
わからないって人


パッと見ただけで見違える事はないでしょう。
 
全部違うんだもの。
その通り見える、
そういう風に見えているのにも関わらず、わからないって事をいう人が多いのです。
 
それで修行をして頂く時、本当に勉強して頂く時は、わからない事を相手にしないんですね、
わからない事の方を探らない、

わからないことは放っておく


皆さん、わからない方を知りたいわけでしょ。わからないと。
わからない方をわかるようになりたいと。
そうじゃなくて、


はっきりしている事、こっちを大切に扱うんです。


研究するんだって、わからない事を研究するんでしょうけど
研究は必ずはっきりしている事を相手にします。
 
なんだかわからない事なんて研究できないんですよ。
 
はっきりしている事、研究しているとはっきりしてる事があるんです。
 
はっきりしてる事があるけども、それがなんだかわからないんです。
 
ね、そういう事あるでしょう。
 
理論的にはわからない、
だけども、こういう風にすればこうなるって事だけははっきりしているから、
それをとりあげる。
 
わからない事はとりあげません。

 

だからこうやって目を開けていると、ちゃんと見えているでしょう。

見えている、はっきりしている事だけを修行で取り上げる、

どういうふうにやってるかだけです。


今、静かな場所、一定の所でこう、過ごしていたから、
変化が少ないので眠ってしまうのかもしれないけど、
さっき川の土手を歩いたりいろんな事をしてきましたけども、
あれ、全部目を開けてたぶん見てきた事です。
 
それ以外にはやって来なかったんだね。
あれが、皆さんのさっきまでの人生です。



で、あわせてですよ、今日この教えの話をするわけですが、
仏教っていう風な言われ方をしているんだけども
どれくらい正確に仏教というものが世の中に伝えられているかの中でですね、
仏教っていうのは、己以外、自分以外をどうこうすることではありません、
 
仏教っていうのは、本当に自分自身を見きわめる事に尽きるんです。
 
ところが一般的には仏教はですね、こうやって生活していると自分の中で
どこかこう満ち足りないものを感じるからそれで昔のりっぱな人たちが
そうやって一生過ごすから、この事を勉強しないとだめなんです。

他の人なんか用はないんですよ。

他の人の事なんか。
 
間違えないで下さいよ。
 
他の人に用はないっていうのは、こうやって見ている事が自分の事だからですよ。
 
ここにいる方お互い見ている事自体が、自分の事だから。自分が今やっている事だから。
 
自分がやっている事がわかりずらい人は、自分の目で見ているって表現したらよくわかるでしょう。
 
自分の目で見てる事が、見えてるって事です。


それ、他人(ひと)の事じゃあないですね。


これなんかもよく理解できてないかもしれない。
自分を見極めてませんから、どうしても他人(ひと)の事を私が見ているんだって、
そういうふうに見ている。


じゃあもうちょっと突っ込んでお話するとですね、
あの人はなんであんな歩き方をするんだろうって、
誰がやるんですか。
私がこんな格好して歩いたりしているとさ、(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)、
どうしちゃったんだろうって。これは皆さんがやるんでしょう。
私はただこうやってるだけです。(老師がすごく変に腰を曲げて歩く)


そういうふうに皆さんが勝手に見方をつけるんです。自分の見方を。
見解を。
 
それで、そういう見方をどこでじゃあ起こすかったら、必ず、今なんです。
これがどっかで起こすんではなくて、
必ず見た時にふっと起こすんです。
その時に起こすんです。
 
これらをよくわかってないですね。
 


悩み、苦しみっていうのは、必ず今起こすだけなんですよ。
 
気にいらないとかっていう思いが起きるんだってどこで起きるかって、
物に触れたりした時にふっとその時に起きた時が気にいらないというふうに
なっているだけであってその他にはないですよ。
 

思いっていうのはねー、夏に使う氷みたいなもんだね。
どういう事かっていうと、氷が解けちゃうと、何処にもない。
 
さっきまであんなにちゃんとした形があったのに、
あの人、気にいらない人だなという思いが出たとすると
ちゃんと氷のようにきちっとその思いがここにあるんだけども、
それが時間が経つとですね、溶けて何処にもない。
 
だけど、溶けた後にここら辺に少し乾くまでしみが残る。
 
それがですね、さっきまであーいうふうに思えたというか事です。
 
さっきまであーいうふうに思えたって事なんですね、しみが。

 
本当は思いってそういうふうにどこにも影も形もないように働くようにできているんですね。
だけども、あの人憎らしいって思うと、みんなそれで、自分の中がおかしくなるのですよ。
 
他の人が思うんじゃあないんですよ。
 
ひとりひとり自分の中で思って、自分の中でおかしくなるだけなんですよ。

 
そういう事が自分を見極めるって事なんです。
 
どういうふうに問題が起きてるか、
どこに問題があるのか、
だって目で見て御覧なさい。

こうやって物を見た時に、
気にいるとか、いらんとかって一切ないでしょ?
 
どうですか?皆さん、自分の目の前の様子見て。
 
その通りにただ見えるだけっていうのが間違いなく基本でしょ。
 
どこ見てもいいですよ。その通りにただ見えるだけなんでしょ。
 
これ、勉強して欲しいんですね。
そんな事ないっていう人たくさんいます。


(老師がマジック二つをかざして)
こうやってどっちが大きいって見えますか?って聞くとですね、
見事に皆さん引っかかるね。
 
どちらが大きいっていうふうに見えますか?って言ったら、
はい、こっちだよって大きいって言うんですね。
 

それは、分別っていうものが動くからです。
(老師がまたマジック二つをかざして)

目はこういうふうに出されてもですね、大きいとも小さいとも比べないんですよ。

その通りにとる。
 
そしてその通りに見て自分でどうもしないのにちゃんとわかる、
置いてある場所の違いもよくわかる、
絶対ごちゃごちゃにならない。
 

どっちが綺麗ですか?って出すと困る、
なんで困るかって、これを出されてみてですね、
どっちが綺麗ですか?って、目は困った事ないでしょ?
このまま見てなんにも困らない。
皆さん、困りますか?



(老師が頭を指して)
困るとしたらここです。
あなたがたの考え方がどういうふうに答えを出したらいいかって
働き出すとわからないって答えになるんです。
 
はっきりしないとか、難しいとか、
 
実際はものすごく明確です。
 
 
そういう事が私達の本来のあり方です。
 
これが自分ではっきりすれば生活の中で、ぐずぐずするような事はありません。
 
要は物ははっきりしているはずなのに、はっきりしている事がどうなってるかを
自分で確かめてみた事がないから自分の素晴らしさがわからない。
 
そういう人が多いから、古くは釈迦のような人がこういう自分を見きわめるって事を
きちっとした代表者です。
 
そういう人がいて、自分を見きわめた話をされて、そして見きわめた人を
そこに生前いる間、取り巻きで触れた人が一緒に生活をして、その言動に触れて
ご自分のそういう事を体験されてなるほど、釈迦のやっている事、
言ってる事は間違いない、確かさがあるって事を各自自分で気づいているんですね。

そういう事によって教えが伝わってきたんです。
 
まあ、それで話は終わりなんですねー。
 
皆さん方はだから勉強もっと違う事しているんじゃあないですか?
 

もしあれだったら、質問たくさん出して下さい。そしたらそれによって深めていけると思います。



この文章は、保護犬マロンと小山っ子いぶきの気ままな日記 〜お茶も~禅も~ のうちの井上貫道老師の坐禅会のテープ起こし部分から引用させてもらっています  貫道老師青梅坐禅会の部分がなかなか探しにくいので、管理人さんに許可を得てここにまとめています



禅 座禅の心構え ~2012年9月井上貫道老師・東京都青梅禅会より①

以下井上貫道老師より御挨拶、座禅の心構え、座禅指導


 坐禅のやり方、坐禅の実践方法 ← ここにも井上貫道老師が詳しく話されています


ご丁寧な紹介並びにご挨拶頂きましてありがとうございます。
それほど忙しい者ではございません。
暇だから出てきているので。

というのはですね、誰も一日は24時間なんですね、
だからそれを超える人もなければ、それよりも短い生活をしている人もない程、
あとは何処にいるかだけなんですね。

それで何処にいるかをよーく見ると、
皆さんどういう風に考えているか知りませんが、
掛川から東京まで来るの大変だねっていうけど、この身体ずーっと運んでいるだけなんですね。

皆さん今日一日だってそうでしょう。
この身体がいろんなところに行っているだけじゃないですか。

それをよく見るといつもここにいるんですね。

ここというのはこの身体のあるところです。
自分がいるんですね。

そういう意味では行き来するものがないんです。

頭の隅で掛川と起点を置いて東京ってやると、掛川と東京まで大変だって思うけど、
この身体をずーっと見てると、ずーっとこの身体のあるところの様子だけがあるんですよ。
どこへも行かない。


そういうことが伝えたい事なんです。

間違えなくそうなんです。


そうすると忙しくなくなるでしょ?

あそこ行かなきゃ、ここに行かなきゃってそんな事無くなるじゃない。
今この身体のあるところのあり方をきちっとやって行けばそれで済む事でしょう。


zendoshihotanそれでこの後、座禅をして頂くのだけども、座禅について心構えという事だけども、
こういう事言ったらいいかと思うんですよね。


人は考えていない時に悩んだ事はない。

どうですか?
(左図はイメージです)

自分の中に考えが浮かばない時は悩まない。

どうですか?

そういう体験はわかりますか?


悩むっていう時には、あーどうしようか、あのときに、あの人と、、、
そうやっていろんな事思い起こして
考えてること、やり始めるとものがよくわからなくってどうしようかって
いうことになるんだけども

考えること止めている時はものすごく、クリアーでしょう、物事が。


で、何をするってことも必要のないくらい穏やかに、そこで生活していて
しかも自分のその内容が自分で手にとるように明確にわかって
疑いが一つもそこにはない。


そういうことで坐禅をすることは自分自身を見究めるってことなんでしょうね。


だから、最初から自分のそういう風な姿というものが今現前とありますから、
尋ねなくていい、それが坐禅のおもしろいところですね。

距離がないってことです。

今間違いなく自分のあり方ですから、
その自分の間違いない自分のあり方がここにあるから、
それがですね、探さなきゃわからないようなものじゃあない。
ということですね。



坐禅をするとき、たずねない、

尋ねないっていうことは、距離がないていうことですね。

これが坐禅の時の、どういう風にしているかっていう時にこういうことです、


尋ねない、

距離がない、

隔てがない、

これがですね、皆さん方にこういう話をしたときに、なぜか難しいんですよね。
なぜか難しく感じるんです。


それは皆さん、普段生活しているときに、必ず向こうに対象物を置いて、そしてそれに
一緒になるということをやっているんですねー。

そういう生活しかしてない。


だから対象物もないから、いきなり自分自身の様子ですから、そうすると
探さないということはですね、すごく難しいんですね。

探すほうが楽なんですね。

探すんだったらやることがあるから。


やることがあるといいんだけど、これ(坐禅)、やることないんだよー。座っていて、
やることがないと、皆さんの頭の中がパニックになる。

どうしてパニックになるかというと、
何もしない、どうするんだろうって考えるからですよ。

それを止めるのですね。

そういう思考を止める。

そうすると、今こうやって身体全体で活動している動きがそのまま、そこにさらけ出されます。

それを皆さんが見ることが、自分を見究めるって事になるんですね。

まあ後でゆっくり話はしましょう。
    (長いので下に続きあります)









禅 座禅指導 ~2012年9月青梅禅会より②  
続きです。

椅子に座ったままでの坐禅指導をしていただきました。

それでは席を後ろ向きにしましょうかね。

五分くらい、作法を簡単に説明をして、30分くらい座ってみたいと思います。


まずですね、

椅子に腰掛けて頂いた時に、背もたれがありますが、せっかくの背もたれは利用しません。

背もたれから離します。

要するに、自分の力で背中を伸ばすということです。




それでは下のほうからやりますが、

足を肩幅くらいにちょっと開いて頂いて姿勢を起します。

顎を引きます。
顎を引くっていうのは、頭を垂れるってことではないんですね。
頭をまっすぐにしたまま、顎を引き寄せる。


でそれから膝の上に置いた手を両方仰向けにいたしまして、左手の上に右手を、
そして親指の先を軽く触れ合わせてそこに楕円形を作ります[法界定印ほっかいじょういん]。


そしたら肩の力を抜いておろします。
下ろした位置はあまり前の方に出すと肩を引っ張りますから、できたらお腹の方に触れるように寄せてください。
そして肩の力を抜いてください。


次に口の処理です、
口は結んで頂いて、舌べろの先を上歯の付け根に少し着くようにします。
そして、唇、歯、を結びます。


力を抜いて体が萎むような感じで息をずーっと吐いてください。
吐ききったら大きく息を吸ってください。
そしてゆっくり吐きます。

三、四回そうやって腹式の深呼吸をして頂いたら、静かに止まって、これから30分位座ります。



鳴り物を入れますので次の鐘がなるまでの間


もう一つは目の処理ですが
目は開けて頂いて座ります。

これはなかなか話をしているのだけども、目を瞑って座られる方が圧倒的に多い。
座禅は目を開けて座るのが一応正式と言っていいでしょう。


それには深い訳があります。
目を開けて座る。
だいたい前方45度位の視線にして頂く。
そうすると半眼位の目の開きになりますので、そういった形で目を処理します。


ここまで出来たら、椅子の場合はですね、ちょっと作法が変わりますが
体を少し左右にゆっくり振ってください。
曲げてください。
それは上半身、腰から上の体を楽にします。

緊張を解す意味がございますので力を抜いてゆっくり左右に曲げていって、
その時に息を吐いて曲げてもらうとさらに効果があります。

そして息を吸いながら元に戻して、腰の付け根からずーっと
四、五回そうやって体を緩めて頂いたら中央に止まって頂いて、
今度は息をゆっくり静かに全部吐き切って頂きます。



 坐禅30分しました。


坐禅の途中、老師は静かな声で、


目を開けて下さい。

目の前の様子が見える、いろんな音がします。

それらは考え事ではありません。

見たもの、聞こえたものに価値判断をしなければ、事実そのものに触れています



と語られ更に坐禅は続きます。


 坐禅のやり方、坐禅の実践方法 ← ここにも井上貫道老師が詳しく話されています





引用元:
http://ameblo.jp/10wanko28/entry-11498533585.html
http://ameblo.jp/10wanko28/themeentrylist-10067613814.html





井上貫道老師ー只管打坐の方法、坐禅の仕方

(坐禅を実際にしようとする人、実際に坐禅を組んでいる人へのアドバイスですので、ただ読むだけだと概念化されて却ってあとでそのことが障害になる可能性があります。ご注意下さい)
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Q.
考え方を離れよと言われますが、考えを断ち切ろうとするというのは間違いですか? 坐禅すると、ずーっと考えが出ていて止まらないんですが。


A.
断ち切るというより、断ち切れているんじゃないですか。

ずっと考えが続いているように思うかもしれませんが、よく見れば、次の考えが出た時、それまでの考えは次の考えによってすっかり消されているはずです。考えによって考えが断ち切られているんです。
最初に出た考えがそのままずーーーーっと最後までその考えだけで続いているなんてことはないでしょう。

でも人間は記憶があるから、それらの考えをつなげて、ずっと考えが続いているように思い込んでしまう。




Q.
「空(くう)」ってのはどういうことですか?

A.
このように、お茶を飲めばお茶の味がするし、飲まなければ味がしない。事実に触れればそのとおりになるし、触れなければ触れないようになっている。そういったことを「空くう」と呼んでいます。要するに、普段の我々の心身のありようのことです。

「無心」ってのも同じ意味です。一般には、雑念や妄想が出てこず、心の中に何も無く静まり返った様子のことだと勘違いされていますけどね。「無念無想むねんむそう」とか(笑)。

Q.
坐禅をすると、わーっといろんなことが出てくるんです。

A.
実際には普段から出ているんです。でも普段はいろんなことで気が紛れているから、出ていることに気がつかないだけです。坐禅をしていると他のことが収まるから、いろんなことが出ていることに気づくだけです。

その出ていることを抑えようとするのは、かえって心を騒がしていることになるでしょ。だって、出てきてしまったものをあとから無くそう無くそうとしているわけだから。出てきてしまったものはどうしようもないのに。

そうではなく、出たものを出たままに、何も手を付けずにいれば、全然心を煩わさないよね。これが本当の「心静か」ってことです。



Q.
「自分の様子をきちんと見るのが坐禅だ」と言われたり、「自分で自分を眺めていては坐禅になりません」と言われたりします。何が違うのかよく分かりません。

A.
「自分を眺(なが)める」ってのは、過去の様子を後から見てることです。自分の感覚や経験を一瞬あとから思い出して取り上げているんです。

そうではなく、「今」の自分の様子をきちんと見ることが大切です。

本当に「今の様子」それだけを見ている時は、それだけだっていうことも分からないはずです。だって、「これが今の様子か」なんて余分なことが出てくる余地がないんだから。





●不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)す
これが一番大事なところです。「坐る」というのがどうすることなのかということです。

今までは身体の形を整えるということでしたが、その後、時間をどのように過ごせばよいかということ、これが抜けたら坐禅にならないということです。

人間の考え方を入れないというのが「不思量ふしりょう」です。直通であるということです。全てのものに、わけへだてなく。



●坐禅については、今、説明したことが全てです。世間の書物などで坐禅について書いてあるのは、形を整えたりなんだのばっかりです。ここのところを書いてあるものはありません。



Q.
普段の生活の中でも「不思量底を思量する」必要があるのですか?

A.
坐ってるときだけが坐禅じゃないです。24時間そうです。

あなたが生きているということだって、「時々生きている」なんてことないでしょ。
坐禅だって同じことです。


自分自身を学ぶというのは、よそにあるものをここに受け入れてこれを改造することではないです。

仏様の教えが外にあって、それを受け入れて学ぶということじゃありません。

自分自身を自分で学ぶということが仏教です。

それをしたのがブッダです。
「自覚した人」という意味です。


自分自身をしっかり見極めるということに尽きます。

その時に考え方が入り、考え方を通して見るようになると、
自分自身の事実がそのまま把握できず、間違ったことになります。




Q.
考え方に惑(まど)わされなければ迷わないのですか?

A.
惑わされないのではなく、考え方を使わない、です。

誰だって、考える前の様子があるでしょ。


例えば、音がしたとき「音がした」って思うかもしれませんが、本当は、自分の動き、身体の働きに気づいたってことでしょ。
音がするっていうのはこの身体の働き、様子なんですよ。

身体の働きに気づいたってことが「見えた」「聞こえた」ってことです。


みなさん、向こうに音があって、それをこちらで自分が聞いていると思っているが、そうじゃないです。

このもの(身体)の活動に触れたんですよ。

このものの活動に触れることが「見た」「聞いた」「味わい」だとかっていうことですよ。


この身体の上でしか体験できないんですよ。





Q.
たとえば、集合写真とかを見た時、まず自分の顔を一番最初に見ますよね?

A.
一番最初には見ません。まず最初に写真の様子があるでしょ。その後で自分の顔を探し始めるんでしょ? 写真の様子がなければ自分を探すこともできないでしょ。探す前に、一番最初に見えているこのことが、自分の様子なんですよ。

写真じゃなくて、自分の様子なんですよ。見えるってことは自分の様子なんですよ。だって他の人が見てるんじゃないでしょ。



Q.
ああ! 自分が見てますね。

A.
自分が見てるってことが、今、自分の生きてる証拠でしょ。それ以外にないでしょ。



Q.
いつごろから自我意識が出てくるんでしょう? 幼稚園のころから? 三歳のころから?

A.
人が寄ってたかって教えるから。名前を付けて、何万回と呼ぶから、「私のことを言ってるんだな」と認識するんですね。他の人ではなく私のことを言ってるんだという自己意識が生まれる。

最初は、本人自体、声が聞こえてるって認識(にんしき)もないですね。

自我意識が出てくるのは二歳ぐらいでしょう。三つ子の魂といいますね。昔は数え歳ですから。



Q.
自我意識はあって当然ということですか? 不思量ってのはそういうことですか? あって当たり前と思えばいいんですか?

A.
そういうことじゃないです。

どんなに自我意識があっても、みなさんは自我意識を使わずに生活していますよ。

(両手を叩いて)「パン」、こうやった時に、「私が聞いた」なんてことは一つも使わないでしょ。どれだけ自我意識のある人であっても。「私」っていうのは入らないんです。聞いたあとから起きてくるんでしょ。「今私が聞きました」ってことは、もう聞こえたあとですね。

画鋲を踏んだ時に「痛っ!」ってのも、そういうことがただあるだけです。「なんで俺が!」ってことはないでしょ。みんなそういうふうに、自我意識なしで生活していますよ。自我意識はあとで付くんですよ。終わった頃に付ける。

そっちから物をながめたら真実が見えないです。



Q.
修行って、自分の思いを断ち切ることですか? 無色になることですか?

A.
(机を叩(たた)いて)「コン」、これを聞くときに、自分の思いを断(たち)ち切るんですか?



Q.
断ち切るんじゃなくて、無いですね。

A.
「思いを断ち切る」なんて言葉が出てくるってことは、何か違うものを学んできたんでしょうね。断ち切らないとうまく行かないと思ってるんでしょう。

でも現実は断ち切ることなしに、「コン」、うまく行くようにできている。





●「私」らしいものは付かないで、人は、確かにいつも触れています。だからずれないんだよね。正確にものが伝わるというのはそういうことです。もしみんな自我意識で物を見ていたら、てんでばらばらになっちゃうね。



●よーく自分に参じて、自分を見てみれば、自我意識がついてないことがよく分かります。でも考え方の上から勉強する人は、到底その話は通じない。



●色眼鏡を掛けている人が、色眼鏡を外さずにものを見てると、必ず色眼鏡を掛けた色でしか見えないからね。色眼鏡を外したときの色なんて分かりっこないね。そのように、考え方で生活している人は、考え方を外れた時のものの見え方なんて、無理だね。





●「パン!」と聞こえて「音がした」って思う時には、もうその音は無いんです。
だから人間の思量分別をそこに差し挟(はさ)むことができないんです。

だから坐禅は、人間の「知る」「知らない」といったことは論外ですね。



● 別々にものがあるんじゃないですよ。
向こうにものがあって、それをこっちで触れて、って、それはそう思ってるだけです。

事実はそうじゃない。
別々のものなんて一つもない。自分と別のものなんて一つもないじゃないですか。




● ここにたくさん人がいますが、これを自分の様子だって言っても、なかなか伝わらないね。
長年坐禅をやってる人でも分からない。

それぐらい自我意識をしっかり立てて区切ってるでしょ。

これ全部自分の様子ですよ。




● 修行は「思い」ではないんです。「こうやればいいんだ」って方程式を立てておいて、それに沿ってやることではないです。




● 「ああ、わかった!」ってなると、たいがい考え方です。




● (別の老師)この中には長いこと参禅しておられる人もおりますが、みなさん、どうも頭で理解しようとしている様子が見受けられますね。
頭で分かったふうになっても進歩はありません。

とことんまで聞いて、そのとおりやってくださいよ。

私もさんざん苦労したから言ってるんです。せっかく老師に来ていただいているんですから、もっともっと尋ねてください。





●初めて会った事実は、いつでもそのまま入ってきます。なのにすぐに概念化というオブラートをかけてしまうんですね。




●坐禅中にいろんな考えが出てくること自体は「事実」です。
でもそれにひきずられたまま考えにひたっていると、「考え方」の世界に行っちゃいますね。

だからと言って『考えが出てきた、まずい』と思うと、それも考え方の世界ですね。

もちろん『考えないようにしよう』と努力するのも考え方の世界でしかありません。
考えが出てくるという事実に自分が関わって考え方に変えてしまっているんです。

実際には、つかむものなんて何にもないんです。


 
 

●『悟り』という字は『吾を示す』となってますね。『仏』とは自覚した人のことです。自分に気が付いた人のことです。思いやはからいを入れずに、よーく自分を見てみることが大切です。

 
 

●仏教が難しいのは、ありがたいはずだ、超越した境地のはずだ、といった固定概念で真実を探そうとするからです。

 

● こういうふうに見ればちゃんとこういうふうに見えます。「こう見なけりゃ」っていうのはないです。



● 六根の働きのままに、浮かんできた思いをとらえずに手をつけずにそのままにしておく。




●考えを「やめる」んじゃないですよ。

事実に即していれば、考えが「やまる」んです。




●「音、音、音」じゃないですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これだけですよ。「ザワザワザワザワ・・・」、これこそが本当の受け身というんでしょうね。



●ほとんどの人は正しく見る力を持ってないですね。
何かが見えたと気がついた時には、もう見えた後になってしまっています。




●眼は前に見たものを残しません。それこそが救いでしょ。何にも束縛されないんです。 




● 目・耳は良し・悪し、好き・嫌いを判断しない。
聞こえたもの、見えたものはその場でその場で完結しており、一切残らない。

それが事実であり、その事実に参じるのが修行。



● みなさんは、本当に物があると思っていますからねぇー




●本当に事実に触れれば、底が抜けてすっきりしますよ。





●坐禅をやらなければ疑問があるはずですし、しっかりやればやったなりに、さらに聞くこと
が出てくるはずですよ。


 
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